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ノートの端っこ

「日常」

 

 手すりに体重をかけながら、階段を上る。その壁には、カラフルな風景写真が並んでいる。私が上る普段のペースの約2倍をかけて、一歩一歩、踏みしめる。自室のドアを開ける。長さ1㍍を超える数枚のモノクロ写真のパネルが目に入る。「これは、あの公園で撮ったんですよ」「あの1枚は、先生がとてもほめてくれて…」。20代の女性、Qさんは、首にかけた一眼レフを手に持ちながら、笑顔で説明してくれた。

 Qさんは生まれつき心臓の病気を抱えている。2つずつあるはずの「心房」と「心室」が一つずつしかなく、動脈の血と静脈の血が混ざり、酸素が足りない状態になってしまう。「普通の人が100メートルを全力疾走した後」のような息苦しさを、常に抱えている。

 小学4年生のころには周囲から歩き遅れるようになり、体育は見学。中学校は1年生の1学期しか通うことができなかった。通信制の高校を選び、週1回の通学と課題をこなし、卒業した。

 外出時は、車椅子を使っていた。しかし自分の手で車輪を回すことは難しく、両親が付き添っていた。

 激しい運動を制限される生活の中で、小学校のころからの趣味が、写真を撮ることだった。家族旅行に行った時は、デジタルカメラを手に持った。次第に、「どんな写真ができるのか、楽しみ」というフィルムカメラに魅せられるようになる。「大好きな写真を学びたい」と思うようになった。

 専門学校に進学することを決めた。しかし、通学の負担は重かった。学校内の活動について行けない。体調が悪化し、入学から1月で休学する。復学することはかなわなかった。

 写真はあきらめられなかった。短大が開く市民向け公開講座の写真教室に通い始めた。両親が付き添い、月3回。撮影から現像まで、すべて一人で行う。題材、撮影する構図、現像の仕方にもこだわった。納得できる写真が完成した時の達成感は何にも代え難い。出品したコンテストで入賞したこともあった。

 学べば学ぶほど、「自分の好きな時に、自分の行きたいところに行って、いろんな景色を、カメラで撮りたい」という思いが強くなっていた。

 どうすれば自由に動けるのか。テレビで「セグウェイ」を見たことをきっかけに家族と話し合い、「電動車椅子」なら一人で行動できる可能性がある、と考えた。電動を使うことができたなら、体に負担をかけず、活動の幅を広がる。慣れたら、一度はあきらめた専門学校や大学に進学する可能性もあるかもしれない。その先には、仕事をするという未来すら拓けてくる、とも思っていた。

 届かなかった場所に手を伸ばせる一条の光だった。

 自治体に申請してから約半年、渡されたのは「日常生活に著しい制限があるとは言えない」という「却下」の文書だった。

 「私の生活のどこを見て、『制限がない』と言うのだろう」。その結論に、納得がいかなかった。判定を出す過程のやりとりで、症状のことを十分理解してもらえていない、という不信感もあった。Qさんは家族らの支えのもと、裁判を起すことを決めた。当初、公の場に立つことをためらいもしたが、法廷で「原告」として、意見陳述もした。

 「私が、他の人と同じように、自分一人で外に出たい、誰かに付き添われてではなく、一人でいろんな経験をしたい、と望むのは、許されないことなのでしょうか」

 Qさんはたまたま、病気を抱えて生まれてきた。5分以上、100~200メートル歩いただけで、息切れが激しくなり、動けなくなる。ほとんどの時間を家の中で過ごし、食べる、寝る、テレビを見る、パソコンをする、フィルムの現像をする。それが、Qさんが一人でできる「日常」だ。

 贅沢をしたいわけでも、怠けているわけでもない。歩きたい道で、行きたい場所へ向かい、自分の意志で行動する。Qさんが望むのは、それだけだ。

 体に不自由がない人にとって、あまりに当たり前のことで、意識することはないだろう。偶然、病気のある体で生きている、というだけで、そんな「当たり前」を望むことすら、許せないというのなら、いったいどう暮らせというのだろう。

 私はQさんの話を聞き、支給を認めようとしない自治体への怒りを感じたのと同じくらい、恥ずかしくなった。Qさんの生活に制限を与えているのは、私を含めた「不自由のない体」だからだ。

 「市や県がいう日常生活とは、何でしょうか」

 意見陳述でQさんが訴えたこの言葉は、私自身に向けられていた。

 部屋に飾ってあった写真が印象に残っている。満開の桜に囲まれた水辺で、男性が絵を描く。家族連れが憩いの時間を過ごす。水面には桜の木が反射している。その一瞬を、モノクロで切り取っていた。私の今の技術では、届かないだろう1枚だった。

もっと良い写真を撮ってほしい。電動車椅子から、Qさんの視点で--。融通の利かない制度や無理解で、その視界を閉ざしたくない。

 

 

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蒔田備憲

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