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フクシってなんなの?会議

障害ってなんなの? その2

 
みなさん、こんばんは。
第一回をたくさんのかたが読んでくださってほっとしているハナです。

第二回は新宿駅のお隣、代々木駅。つざき姉さんご指定の「DADA CAFE」に集合です。
路地を入った奥にある古民家をそのままつかったお店で、看板もないんですよ。

恐る恐る玄関の引き戸をあけてみたら、とっても素敵な店内でした!

ハナ 姉さん、わたし第一回のあと、ひとつ発見したことがあるんです。
つざき どんなこと?
ハナ わたし山手線で通勤しているんですけど、よく駅員さんが車椅子のかたの乗降を手伝ってらっしゃていて、JRって親切なんだなあ、って思っていたんです。

でもね、このあいだせちろうさんと都営地下鉄に乗ったんです。
あ、せちろうさんは電動車椅子であちこち精力的に出かける大学院生です。
(編集部注:2012年3月に卒業してます)

そうしたらその駅の駅員さんは全然ついてきてくれないんだけど、せちろうさんの移動はすごく早くて、電車の乗降もまったくお手伝いする余地なしで、私、ついてくのがやっとだったの。

それで「ああ、そうか。」って。

地下鉄のその路線は設計の新しいものが多いから、車椅子の人がひとりで移動することにとても配慮のある建物なんだ、って気づきました。

駅員さんがずっとついてきてくれて手伝ってもらえるのが必ずしもいいんじゃなくて、ほんとうは、なんの手伝いもなく自由に動ける方がいいんじゃないか、って思ったんです。

あとで、せちろうさんに聞いたら(鉄道会社の違いじゃなくて)駅によって設備も対応も、ホント違うんですって。

環境が変わることで、障害をもったひとの生活が変わって行くって、こういうことなんだな、って思いました。

つざき それはすごい発見だね。
ハナ 「懐の大きな社会」っていうのは、そういうふうに一人でできる社会インフラをつくることなのかな、って思いました。
つざき 確かに一人でできる社会インフラはいろんな障壁をなくす手段のひとつではあると思うけど、「懐の大きな社会」ってそれだけではないと思うよ。
そのことを、もう少しゆっくり考えていこうよ。

前回の障害ってなに?っていう話にも、まだ続きがあるしね。
前回の3つの段階も大事だけど、私は、むしろ障害を説明するとき、このことがとっても大事なことで、かつ難しいことだと思っているんだ。

ハナ 4つめの段階があるんですか?
あれから少し考えてみたけど、まったく想像つかないんですけど・・。
つざき うん。
実は、4段目じゃないんだ。
今日はそれを話すね。
ハナ はい。
つざき姉さんが30代のころのお話ですね?
よろしくお願いします。
つざき いや、まだ20代だったんだけど(苦笑) 。

さっき、せちろうさんの移動はすごく早い、って話していたけど、誰でもそんなにすごく早く移動できるんだろうか?

ハナ いや、せちろうさんはプロだと思います!
つざき プロって・・(笑。

じゃあハナちゃんがもし今日事故にあって、明日から一生車椅子の生活になったとする。せちろうさんのように移動できないよね?

ハナ 絶対に無理です。
特訓しないと。
つざき うん。特訓したらできるかもね。
じゃあ、明日から特訓できるかな?
ハナ
つざき ハナちゃんのおじいちゃんが車椅子の生活になったとき、どうだった?
ハナ あ。大変でした。
特訓どころじゃないです。

すごく怒りっぽくなってしまって、自分を障害者扱いするな、って言ってみたり、もう前みたいにはできないんだ、って言ってみたり、ふさぎ込んでみたり。

母に励まされるのもいやだったみたいで、母もどうしていいかわからなくって・・。

つざき 車いすは自分で操作することはできたの?
ハナ はい、脳こうそくだったんですけど、車いすの操作はできました。
でも、車いすを使うことが、なんか嫌だったみたい。
つざき そうか・・。おじい様の立場になったら、今までなんでもできたのに、それができなくなったのはきっとショックだよね。

今まで元気だったのに突然障害をもったとき、ほとんどのひとは大きなショックを受けるよ。ショックと言っても、最初は何がおこったかわからないような、「わけわかんない」って感じだね。

そのあと、頭ではわかってくるんだけど、「まだ治るのではないか」「なにか方法があるんじゃないか」と思ったり、あるいは「なにかの間違いなんじゃないか」と思ってみたりすることも多い。

そしてそれが治るものではないと理解できてくると、今度は自分の運命に反発するような、混乱が起こりやすいんだ。自分を責めたり後悔する人もいるし、自分で自分をどうしようもなくて人にあたったりするひともいる。

障害を持つというのはね、身体的なことだけじゃないんだ。
いろんな感情や考えが押し寄せてくることなんだよ。

ハナ うちのおじいちゃんもまさにそうでした。
とっても混乱していたのかもしれないなあ。
つざき それは、突然に障害をもった時、多くの人が自然にもつ感情なんだよね。
そんなときに

「世の中には、前向きに生きている障害者の人がたくさんいるから、がんばれ。」

なんて言われても、、、それはその人の心に響く言葉にはならないよね、多分…。

ハナ うちの家族もみんなで励ましていました。

だって、おじいちゃん昔から、すごくがんばり屋だったから…「自分はもう役に立たない人間だ」なんて嘆くのを聞くと悲しくて。

家族にとって、おじいちゃんの大切さはなんにも変わらないのに。

つざき それは悲しいね。

でも、それも自然なことなんだよ。
多くの人は、小さいころから、何に対しても「できることは素晴らしい。」「できないことは価値が低い。」と教えられているんだ。

ハナ 教えられている? それって普通のことじゃないんですか?
つざき たとえば、日本ではみんながトイレのプライバシーに対して敏感だけど、なぜだと思う?
子供に排泄を失敗させないように「くさいねっ」て親が教えるからだよ。「きちんとできないと恥ずかしいね。」と教えるから…。
だから一人でトイレにも行けるようになる。

同じように、なにかができると「すごいねっ」て褒めて、できないことがあると「これくらいできないと恥ずかしいよ。」って教えているよ。

そうやって何年もかかって、「できて当たり前」はできあがって行くんだ。

ハナ 前回の「ふつー」と同じですね。
つざき うん。それが突然、トイレの始末の世話になるとか、できて当たり前のことができなくなるのは、つらいこと。

機能障害それ自体だけでなく、「できて当たり前のことができない」「自分は社会の役に立てない」と思うことが本人を苦しめてしまうんだ。

これは、長い時間をかけてつくりあげた一人一人にとっての「当たり前」とか「価値観」によることだから、同じ車椅子の人が並んでいても、その障害の捉え方や心の苦しさは全く違う。

このことを、体験としての障害とか主観的障害と呼んでいるんだよ。

ハナ 一生懸命はげましていたけど、おじいちゃんのことあんまり考えてなかったかもしれませんね・・。

でもね姉さん、おじいちゃん今は、とても元気なんです。

つざき 何かきっかけがあった?
ハナ デイサービスに通って、同じような障害のある友達と会ってからかな。
だんだんと…。
つざき 想像だけど、おなじ障害をもつ人と関わる中で、自分の中に新しい価値観を見つけることができたんじゃないかな。

障害をもったひとは、押し寄せてくるショックや混乱したままではいられないから、だんだんと障害を受け入れて、問題を解決しようと考えられるようになってくる。

ただこれは、これまでの「あたりまえ」や「価値観」を大きく変えていくことになるひとも多いから、生半可なことではないんだよ。
これには時間も出会いも、本人の解決していく力も必要なんだ。

ハナ おじいちゃんもやっぱり時間がかかってましたね。
おかあさんも、いろんなおじいちゃんを見て、ショックがってたけど、今はおだやかになってます。
つざき おじいちゃんは、ご家族と一緒に乗り越えることができたんだね。
体験としての障害は、まわりのひとの影響も大きいんだ。
ハナ まわりの人ですか?
つざき うん。家族はもちろん、普段接する人たち、それから社会のみんな。

たとえば今の障害を受け入れてゆく話だって、

「じゃあ、受け入れられていない人は、だめな人だ。」とか、
「まだ、低い段階の人だ。」ととらえて叱咤するひとがいる。

でも、それも「できないことは価値が低い」のひとつだよね。

「できないことは価値が低い」という価値観からの脱却に苦しんでいる人に、「できないならきみはダメなひとになってしまうぞ。」と繰り返し「教えている」ことになってしまうよ。

ハナ 本人のためと思っていても、それが価値観を押し付けていることになりかねないんですね・・。
つざき それから、いくら自分自身の混乱を乗り越えてきた人でも、まわりの冷たい一言で、つらい思いをする。

週に3回透析をしている知人がいるんだけど、2日に1度病院に通わなきゃいけなくて、3Kg以上の重いものが持てない。職場にそれはちゃんと伝えてあるんだけど、

「海外出張に行ってほしいんだけど」
「この(重い)荷物をすぐに運んで」

って言われる。見た目にまったくわからないから、たぶんなんの気なしに言われているんだろうけど、それを断る度に、

「こんなこともできないの?と見られているような気になってくる」

って話していたよ。

つらかったり、悲しい気持ちは、人間だから、いつでもあること。
きれいごとで簡単な話ではないと思う。

ハナ だからまわりの理解が必要なんですね・・・。
つざき わたしはね、福祉っていうのは「障害があってもなくても、誰をもあるがまま受容する、認める。」そこを扱ってゆくことだって思っているの。

「できない」ことをあきらめるんじゃなく、我慢するのでもなく、みんなが自分らしく生きていけるようになったらいいな、って思っているよ。

そのためには本人だけじゃなく、みんなの意識が変わってゆくことがとても大切なんだ。

ハナ うちはおじいちゃんだけじゃなく、おかあさんや家族みんなが、おじいちゃんの障害を受け入れてきたのかもしれませんね。
おじいちゃん、今じゃ別人のようだもの。

あれ・・?

でも、そうすると・・・。

同じ機能障害が、価値観やまわりの状況によって、その人の人生に問題であったり、あまり問題でなかったり・・。 それこそ一人一人、変わってきてしまう気がします。

だとしたら結局、障害ってなんなんでしょうね。

つざき とても大事な疑問。

その疑問こそが、障害って何か、そして福祉ってなにか、を進化させていくんだよ。

前回は、言ってみれば客観的に見た障害について話したんだ。
今回は、本人から見た主観的な障害について。

どちらも、その問題は「どういう内容か」、っていうことを話したよ。

次回はね、「その障害はその人の人生にとってどういう意味を持つのか」を視点にして「障害ってなにか」を捉え直した進化のお話をするね。
2001年、21世紀に入ったころのことなんだ。

ハナ ようやく、姉さん20代脱出ですね。
つざき そこ、こだわらない!!

 
 

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