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訪問看護 Body & Soul

震災から17年目の『G』

 
 「ありがたし、すべて人生、我に良し」。

 72歳の、高次脳機能障害を背負った男、「G」の座右の銘だ。

 「G」とは実はうちのジイ、私の父である。彼の愛称は「G」(ジイ=爺さんのジイ)。祖母(Gの母)に始まって、私の娘(孫5歳)に至るまでみんなが彼をGと読んでいる。

 2年前の事である。Gはその日の午後、自分の仕事の職能団体の会議へと出かけていた。その会議の場で突然、口調がおかしくなり、ヨロヨロ、ふらふらし始めた。不審に思った周りの仲間はGに「帰った方がいい」と家に帰って休む事を勧めた。

 午後3時、一人で帰宅するのは難しそうなので仲間の数人が家まで送ってくれた。母は近所の医者へGを肩で抱えて、やっとの思いで連れて行った。上の血圧が170代だった。80歳を超えて診療活動をしているその高齢の医者は普段のGの主治医ではなかった。医院でGは嘔吐した。医者はGに血圧を下げる薬をくれて自宅で休むように言った。母はまたGの肩を抱えて何とか家にたどり着き、布団をひいてGを寝かせた。Gは嘔吐に加えて頭痛も訴えだしたが体がなんだか奇妙な感じで立てない、そして動けない。そのまま、なす術も無く布団に寝かされていた。

 午後5時半、私が仕事から帰宅したとき、妹から電話があった。「Gの様子がおかしいらしいねん、どうしよ?」。私は母に電話した。「Gの具合は?」との問いに母は「近所の医者に連れて行ったから大丈夫」、と言う。イライラした私は「だからどんな症状なん?立てないの?気分悪いの?何なん?」。母は「酒も飲んでないのに酔っぱらってるねん。ろれつが回ってないし、フラフラで歩かれへん。そういえば吐いたわ、頭痛いって・・」。

 次の瞬間、 私は電話口に向かって叫んでいた。「すぐに救急車を呼び!早く今すぐ!」。私は血の気が引くのを感じ、動悸が鳴った。顔が紅潮するのが自分でもわかった。脳内出血の教科書そのままの症状に心が嘶いた。「脳の血管が切れとるで。どんなことしても脳外科のある救急病院へ今すぐ運んでもらいや!絶対やで、救急隊に泣きつけ!私電話切るからすぐにやで!」。

 そのとき、私の娘(3歳)はインフルエンザの診断を受けて寝ていた。私はすぐにでも実家へ走って自分が対応したかったができなかった。電話を切ったあと妹にも電話してフォローをお願いした。

 Gは救急車で運ばれ、脳外科の専門病院でそのまま、一晩中手術となった。ひどい脳内出血だったが、一命を取り留め、そして半年後に病院でのリハビリを終えて自宅に戻ってきた。高次脳機能障害という十字架を背負って。

 初期の頃の手足の麻痺はほぼ消失。なんとか風呂にもトイレにも行ける。でも、テレビを見ても何を言っているのかわからない。文字が解読できないから新聞も読めない。数字がわからないから買い物もできない。スイッチがわからずエレベーターにも乗れない。もちろん仕事もできない。見当識障害があるから一人で外出すると迷子になる。言葉が上手く出てこない。なのに、幸か不幸か手足は動く。見た目にはわからない重篤な障害を抱えて悶々としていた。

 保険会社からは一銭も生活の保障金が下りなかった。手足が動き、歩行はできたので障害の認定もしてもらえなかった。調べに調べまくって、ようやく見つけたのは「精神障害者」の申請。でも経済的な支援や保険金はまったくおりない。まさに制度の谷間。誰も助けてくれない。何の社会的支援制度も無く、長年掛けてきたいくつかの生命保険もまったく役に立たなかった。
 
 
 Gは阪神大震災で2重のローンを抱えていた。被災で自宅は一部損壊ですんだが、元町にあった営業していた店舗が全壊した。震災の義援金は自宅損壊の場合の全壊と半壊にしか支払われなかった。自宅が一部損壊で店が全壊、家と家のローンは残って、自営業の仕事がなくなるという最悪のパターン。誰も助けてはくれない。自助努力のみでの復興を強いられた。

 神戸の元町、繁華街の近隣にあった店は震災によって、ただの瓦礫の山と化した。父は途方にくれ酒に溺れる毎日を送った。経済状態は困窮し、家族関係も一気に悪化し喧嘩が絶えなくなった。しかし、長男(私の弟)が「これではいけない」と奮起し、仲間数人の協力を得て、震災復興のイベントを立ち上げ、店の復興に尽力した。イベントは成功し、Gは若者達に励まされて、店を建て直すべく、災害復興資金を借りた。それを資金に自宅の一部を改装して仮店舗を立ち上げた。

 その後は、仕事の復興に全力をあげて尽力したが、Gはいつも「ああ、俺の人生は借金返すだけで終わるのか」といつも嘆いていた。2重の借金は零細自営業を不景気の中営む上でいつも頭から離れない最大の苦しみだった。

 Gが病後、働けなくなり、Gの作った借金をなんとかチャラにできないかと、母は東西奔走した。でも、何も策はなく役所も首を横に振って気の毒そうに見つめるだけ。Gは今や仕事もできず、借金を返す当ても無く、とうとう母は生命保険を全部解約した。それで何とか借金は全部返したが、Gが今後病気で入院をしたり、亡くなった時の保障はゼロになった。つまり、借金は返したが、医療保障も含め、自分たちの老後の年金・生活費も失ったのであった。

 母は「あのとき、あんた(看護師の私)が救急車なんか呼ぶからこんな事になってん、あのとき死んでたら全部借金も返せたし、立派な葬式出せて、市長も知事も葬式に来てくれたわ」と私をなじった。

 「ま、生きてるだけでもええやん、飾り物やとでも思っとき。生活なんてなんとでもなる」と私が慰めた。そして私が経済的な支援を行った。

 そして私たちは今年97歳になるGの母、私の祖母を抱えていた。祖母は伝い歩きはできるが、車椅子生活。母は心臓病で入退院を繰り返しており、祖母の介護まで不可能だ。とうとう施設に入ってもらうことになった。でも祖母の国民年金では施設の月額費が足らない。もちろんGと母の年金も「雀の涙」で自分たちの生活もままならない。結局、孫である私が足らない金額を補填する事になった。

 Gが自宅へ戻ってから2年の月日が過ぎたつい最近、Gの親友が亡くなった。阪神大震災でボランティア活動に仕事を捨てて、人生のすべてをつぎ込んだGと同世代の男性だった。その彼も災害復興資金の借金をしており、Gが保証人になっていた。

 もちろんGに払える術はない。仕事はできない、とても生活できないくらい少ない年金。母がこれまたGに支払い能力の無い事を証明するために東西奔走して、免除してもらった。母も心臓病を抱えた身。無理はできない。

 今、私たち一家は両親と生計を共にしている。理由は言うまでもないだろう。阪神大震災は17年たった今でも、私たち一家の中では終わっていないのだ。
 
 
 でも人は震災を乗り越ええいけると信じられる事実を、自分のたくましい家族達から学ばされる気がする。

 Gは言語聴覚士による訓練を週にデイケア一回、訪問で一回受けて続けて、かなり回復してきた。テレビもだんだん見れるようになった。昔大好きだった水泳もできるようになった。視野欠損や右上下肢のしびれや軽い麻痺もほとんど消失した。

 そう、人は強いな、と思わされる。Gは洋服職人の3代目。仕事にプライドを持って仕事が生き甲斐だった。紳士服テーラーを営み、職能団体で活躍し、陛下から褒章もいただいている神戸マイスターだった。
 そんなGであったので最初は仕事ができなくて鬱病にでもなるんじゃないかと心配されていたが、案外、ひょうひょうと毎日を受け入れて暮らしている。

 ついでに言うと、施設に入ったGの母(私の祖母)も仲の良い同世代(90歳代)のボーイフレンド?ができたみたいで楽しくやっているようだ。さすがGの母、アッパレだ。そして母も最近は笑顔が増えた。

 Gの座右の銘「ありがたし、すべて天命、我に良し」と元気な頃、自分で筆を取り、半紙に書いて飾っていた。震災でどこかへその半紙は消えてしまったけど、Gはいまも、その生き方を貫いている。
 
 

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原田三奈子

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