彼は手首を切って命を断った。
震災から半年後のことだった。彼は震災当日から一緒に医療支援をした仲間で信頼し合っていた若い医師だった。
朗らかなところしか見せなかった明るく笑顔の彼だったが、誰にも見せないが鬱傾向な一面もあり、メンタルを受診していたのは知っていた。でも、まさか、こんなことになるなんて。悩んだ。苦しんだ。こんな事になる前に、自分に何かできた事はなかったのか?って。前日まで一緒に仮設住宅を往診同行していたのに。もっと何か彼の発するサインに気付いてあげれなかった私が悪いのではないかと。まだ20代後半で若かった私は、自分を責めた。周りのスタッフはみんなで、かばい合いピアサポートし合った。でも、私は自分が死に飲み込まれていくのを感じていた。その後、私も何度も「死にたい」と感じるようになってしまった。電車がくる度に飛び込みたくなった。こんな気持ちは初めてだった。見かねた上司の医師に無理矢理「抗鬱剤」を処方された。
その後、私は無謀な医療支援活動に無理を重ね、頚肩腕症に苦しみ、仕事を辞めた。そして、一人で海外をさまよう事になる。そうして立ち直って今の私があるのだが、その話はまた別の機会に書こうと思う。
阪神大震災・・・あの頃、私はすでに看護師として働いていた。激震地に立地する勤務していた診療所で、あの日、地震の一時間後から医療支援の最前線で働き続けた。
3ヶ月から半年後、街中の瓦礫の山が少しづつ撤去され、どこもかしこも砂埃でみんながマスクをしていた。私も訪問看護に出る時は粉塵防止マスクをいつもしていた。アスベストや有害物質を吸引してしまったかもわからない。とても古い建築物もたくさんあったので誰にもわからない。それは年月を経ないとわからない。とにかく目が痛くなるほど、ビルや家が取り壊されて瓦礫となり、街はいつも空気が白ばんでいた。そして、半壊以上の建築物はみんな取り壊されては、撤去されて、そこには更地が残った。自殺した彼は亡くなる前日、自分の自宅が更地となっていたのをじっと見つめ続けていたという。
そして人々は仮設住宅に移り住んでいった。
彼の亡くなった後、立て続けに周囲で自殺が続いた。同じ職場の別の部署の人が電車に飛び来んだ。仮設住宅の2階から仲の良かった患者さんが飛び降り自殺した。
大好きだった高齢の男性患者さんを亡くなる前日に訪問したのは私だった。彼は私に高級ウイスキーのストレートを注いでくれて「お願いだから、一緒に呑んでくれへんか?」。私は白衣を着て訪問看護のために訪問していた。立場上そんなことをするわけにいかないので断った。「じゃあ、一緒にタバコを」と言われたので、当時、喫煙者だった私は一緒にタバコを吸った。
患者さんの飛び降り自殺の話を聞いた次の日、「あの時、私はお酒を飲んであげるべきだったんじゃないか?」とか、「いつもと様子が違うとか、観察力が足らない自分のせいで、自殺を防げなかったんじゃないか?」などと自分を責めた。
立て続けにこのような事が、被災のあと被災した自分の周りで起こるのだ。私はかなりタフな性格だと自他ともに認めていたが、先ほども述べたように。すっかり精神的に病んでしまった。
今だから言える事は、私が悪かったのではない、時の流れを止められないように、それは誰にも止められなかった事なのかもしれない。長い時を経て、考えに考え抜いて悩んで、自分も、周りの人も、死を選んだ人さえも自分の中でやっと肯定できるようになった。だからこそこうして書く事もできる。これらの出来事は、何年も自分の中で封印して思い出す事すら深層心理が拒否していた。パンドラの箱だったのだ。
そして、同じ事を繰り返してはいけない。震災で生き残った命が、闇の力に引っ張られる時、私たちは光の世界へ彼らを呼び戻すための努力や、そうなる前のなんらかの手だてを、経験から学ぶ事ができるはずだ。
東日本大震災から半年が過ぎた。かの地で起こっている事は、もうほんの一部でしかメディアは語らなくなった。阪神大震災で被災した私は、同じ事を繰り返さないために、今、書いている。どうか生き残った尊い一人一人の命が被災地で守られていくことを心から願う。
自立にはそれぞれのペースがある。早く立ち直れる人もいればなかなか元の生活に戻れない人もいる。事情は千差万別だ。被災者は援助を受けることで特をしたと思っていない。援助の種類や質は時とともに変化もするし、人によってもまったく必要としていることは違う。被災地の問題は持続的に個別的に、より複雑さを増して枝分かれしていく。生活の再建のための長い長い営みはこれから何年も続いていく人たちがたくさんいる。
仮設住宅に入れたことが、良かったことだとは言いきれない。中心地から離れた場所ならば移動の度に高い交通費がかかる。仮設の抽選に当たっていない人はうらやむかもしれない。でも決してよかったとは言えない状況である。同じ仮設住宅への入居でも同じ地域に居続けられるケースと、そこから引き離されるケースとでは雲泥の差がある。
避難所全盛期には希望の星のように思われていた仮設住宅が、いざ住み始めてみると苦痛以外の何ものでもなくなる。阪神大震災の経験から得た事だ。仮設住宅に入らなければならない人たちは、震災で家とともに「自分」にまつわる多くのものを失った。住むところができて一応の安定を得て、本格的にそうしたものの「喪失」と向き合うことになるのだ。行政は仮設住宅までは用意してくれた。この後はみんな「自力」だけで立ち直っていかなくてはならないのだろうかという不安感。避難所にいた時のストレスと引き換えに「喪失」と「不安感」の2つに真正面からむきあわなければならない。家族が居る人はまだいい。一人暮らしの方はたった一人でその苦痛と向き合う。
一人ぐらしの人が新しいコミュニティにとけ込むのは色んな要素が必要である。まず女性の方が男性よりずっと集団コミュニケーションになじみやすい。男性は高齢者ほど世代的な関係から、もともとおしゃべりをしない人が多いので何かと難しい。それから、高齢者の中には歩行状態の悪い人も少なくない。歩いて集会などに行くのが苦痛な人は、ただ誰かの訪問を待つだけ。狭い狭い仮設の部屋の中で。神戸の時でもそうだったのに、雪が降り始めるとどうなるのだろう。
神戸の震災の時には私が往診同行や訪問看護で訪ねていった患者さんが話をし続けなかなか帰してくれなかったこともあった。みんな寂しいのだ。そしてあの命を絶った高齢の男性患者さんも仮設に入って本当に孤独だった。あまりの孤独と絶望が彼を死へと追いやったのだ。先述の通り、高齢男性は友人作りが苦手な上に、元々がおしゃべりでないことも多く本当に孤立してしまいがちになる。
そして究極は震災で家族を亡くして一人になってしまった人。その悲しみ苦しみは、仮設に入ることで、避難所の時のように多くの同じ境遇の人と交わることで癒されていた関係を失う。まして、避難所で一緒だった人達や住み慣れた場所から離れた場所へと行かざるを得ない仮設が当選してしまった場合は、言葉で表現しきれない孤独や苦しみと毎日戦わなければならなくなる。
自宅が一部損壊程度で、仕事の方が失われてしまった人は収入がまったくない状態で貯金を切り崩していかねばならない。実は私の実家もそうだった。父の商売していた店舗が全壊した。自宅と自宅のローンは残った。父は絶望して毎日お酒に入り浸るばかりで何もしようとしない日々が続いた。家族内での喧嘩も激しくなり、一家が絶望に追い込まれていた。生活費は私が看護師として働いていたのでなんとか補うことができていた。そんな中、長男(私の弟)とその仲間が数名、災害復興を願い、店の復興のために協力してイベントを立ち上げてくれた。父は紳士服テーラーを経営する服飾デザイナーだったので「神戸洋服」のイベントを会場を借りて大々的に開催したのだ。何千枚ものチラシを若い長男とその仲間が、一軒一軒家をまわって配って歩いた。イベントは大成功し、利益も出す事ができた。
それをきっかけに父は正気を取り戻し、「災害復興資金」を借りて、自宅のガレージを改装してまた商売を始めた。ただし、「家のローン」と「災害復興資金のローン」という二重の借金が彼の陰となり、震災から15年後の2010年、脳内出血で倒れるまで返済にただ追われる日々を背負っていかねばならなかった。とはいえ、若い人達の素晴らしい行動力は、気落ちした壮年達を救う力がある。被災地でももっともっと若い人達のパワーで溢れるなら、復興はより近いものになる。うちの実家の例はその典型であった。
今も仕事がなくて義援金よりも、支援物資よりも「仕事をください」と叫んでいる人がたくさんいるであろうと確信している。全国で様々な支援が展開されているが住み慣れた場所は離れたくない。でも、生まれ育ったその地で仕事を見つける事も難しい。生活はそろそろ限界にきている事と感じている。「同情するなら仕事くれ!」という声が聞こえてきそうだ。
もっと日本全体が関心を持ち続けなければ、大震災がもたらした被害は2次的被害、3次的被害へと拡大していく。大変なのはまだまだこれからなのだ。お願いだから忘れないでほしい。そして小さな事でもいいから関心を持って、被災地で何がおこっているのかを知ってほしい。このままではまさかの凍死による孤独死などがおこるのではないかと危惧している。仮設住宅では水道光熱費は全部自己負担。払えない人は暖房費を我慢するかもしれない。
どうか東北の地が、被災地の問題が、雪で覆い隠されてしまう事がありませんように。