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訪問看護 Body & Soul

うちの家族にも障害者がいた件

 
私はつい最近まで、多くの人と同じく、「障害を持つ家族のいる人は大変だなあ・・」と思っていた。でもうちにもしっかり障害者の家族がいた、と気付いた。なんとノンキな事か。ぜんぜん意識していなかったが、うちの父はまぎれもなく障害者なのである。そして私はその家族。父は医学的にも社会的にも生活的にも立派な障害者。不思議な事だ。自分の家族が障害者だという意識がまったくなかった。特に意識せず、単に一緒に生業を共にする家族・生活者として認識していた。もちろん一緒に暮らしていく上で、助けてあげなければならない多少の不便はある。父は不便を持つからこそ障害者と名乗ることができ、社会にも認められている(あなたは障害者です、と)。

なぜ、そんなことを今頃になって気がついたのかというと、最近ある人から「お父さん、お元気そうね」と言われて、「見かけは元気なのですが、脳内出血後の障害が残っているのです」と答えた。でも、その方には元気そうに見える父の、いったい何が悪いのかよくわからない様子だったので「言葉がうまくでなくて、数字が数えられないんです」と付け足した。でも、その方はまだ、いぶかしげな感じで「あら、そう・・・??」という感じで、父の持つ深刻な障害の内容がイメージできない雰囲気だった。そこで、「精神障害者手帳を持っていて2級なんです!!」とトドメをさすと、やっと納得されて表情をしかめて、「あら、そう、大変ね」と満足げに悲しげ?な表情をされた。

かの有名な「星の王子様」(サン・テグジュペリ)の中のくだりを思い出した。「おとなの人たちに『桃色のレンガでできていて、窓にジェラニウムの鉢がおいてあって、屋根の上にハトのいる、きれいな家を見たよ』といったところで、こうもピンとこないでしょう。おとなたちには『十万フランの家を見た』と言わなくてはならないのです。すると、おとなたちは、とんきょうな声を出して、『なんて立派な家だろう』というのです」。

「父は言葉を間違えたり、数字の計算ができなかったりするんです」と説明しても世間の人にはピンとこない。「父は2級の精神障害者手帳を持っているんです」と言ったらやっと世間(の大人達)は「まあ、なんてひどい障害なんでしょう!」と理解される、といった感じだ。

そんなわけで、私はそのとき初めて「そうか・・うちの父も見えない障害の障害者」なんだ、さらに「え?私って障害者の家族!?」と初めて自分の中で認識したのだった。違和感があった。それはまぎれもなく私自身の中での「障害者」と「障害者の家族」のイメージが先行して存在しており、父や自分がそのイメージと重ならなかったという事だ。

なんということだ、この見えない障害「わたしのフクシ」のサイトにはずっと関わっていたにも関わらず、じつは家族にも見えない障害を持つ「障害者」がいることに最近になってやっと気がついたのだ。見えない障害を持つ人を支援したいと思いながらも、自分の中での「障害者」ということを感じる概念はやはり、目に見えるものにばかりいってしまっていることもまた思い知らされた。

(早く父にも「見えない障害バッジ」をつけさせなければ!!)

その障害だが、うちの場合は本人も周りも慣れて、「不便」が「普通」になって“日々の生活”というジグゾーパズルの枠にピッタリはまりこんでしまっている。障害といっても種類も程度も年齢なども、それは様々。要するに障害者の家族を持つ人はその障害が日々の生活のパズルにハマってしまわないと、きっとイビツな感触や苦しさとなってとても辛い思いをするのだと思う。つまり周囲の介護力とのバランスがとれていなかったり、社会参加しないといけない年齢や境遇で対外的に困難があったり、障害そのものが身体的・精神的に痛みを伴ったり、経済的に困窮している、などという事だ。

少なくとも私と私の家族のみんなは、誰も父のことを「不幸だなあ」とか「気の毒な人、さらには「めんどくさいなあ」とは思わない。ちょっと助けが必要なので「大変だなあ」と思う事はあっても、流れる日々が少しずつ「大変さ」を「ただの日常」へと変える魔法をかけてくれたのだ。

父がその障害である言語障害では「お箸」のことを一生懸命「布巾」と読んでみたり、家電製品のスイッチの使い方がわからなくてとんでもないミスをしたりするときには、ケラケラと笑って「もう、仕方ないねえ」とミスを訂正してあげている。父も一緒になって「まいったなあ、また間違えちゃったよ」ってな感じで一緒にいつも笑う。関西人のボケとツッコミ、自虐ギャグなどを毎日みんなで楽しんでいる。

「父は3年前、脳内出血で倒れ、高次脳機能障害という十字架を背負って生きている・・・」。なんと悲壮感が漂う文章であろう。しかし、家には、ボケてくれる父と、ツッコミを入れてくれる母と、それを見てケラケラ笑うギャラリーがそろっている。我が家に悲壮感はない。それは前にも述べたが、①生活上の介護量と介護力のバランスがとれている、②社会的・対外的に広い選択が自由にできる世代である、③身体的な痛みを伴わない(とはいえ、精神的には仕事ができなくなった辛さもあるのだが)、そして、④経済的に困窮していない、などの要素がそろっているからだと思われる。

「障害者の定義」いや、「障害」というもの自体の概念が、みんな一人一人様々なのであろうと思う。そしてそれをどう捉えるかもみんなそれぞれ異なっている。今回、ある人が「お父さん、元気そうね」の一言で気付かせてくれた事はいろいろな問いを私に投げかけてくれたのであった。
 
 

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原田三奈子

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