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Café du dacco

おはなしその3

~ 己が倫理に信を問え、なのだ☆ ~

 
 この連載、いただいたのが3月で2話目を書いたのが5月。で今9月。週2回半年連載の予定だったので、本来は12話書いて終わっているはずがほんとうに何をやっているんだろうか自分?

早いですね! 半年は!!

・・・と、とぼけている間にもはじまってしまった、いろんなことが。変わり出している、いろんなことが。エネルギーシフト、TPP、いじめ、虐待、失職率、上がる税金、下がる生活満足度、そしてまた総理大臣が変わるのか?

「あー!!もう全部何だかよくわかんないしついていけない!」

と発狂したいほどニッポンには今いろいろあって、その中で誰の手を取って、誰が為に書き続けるのか。書き手には「そっちには行かない……こっちにも行けない……」という選ぶ道、歩みたい道をよく考えて、「えい!」と書くことに氣を込めてから出す責任がある。だから、いただいているこの場を何に使うべきか考えているうちは書けなくて、けれど、そうこうしている内にも私たちの「命にかかわること」が、どんどん、「法化」されそうになったり、「試行」をすでにされたりしている。

 この国は、虐殺はしない、内戦はない、でも殺す。そんな国になってしまうのじゃないだろうかと気に掛かる。今ここは岐路だ。しかもけっこうな土壇場だ。現状の身体が要介護や要医療という人々だけにではなくて、きっと、将来に年老いたとき、医療や介護を必要とする、すべての健常者にとっても。

 今年の5月から9月までの間に「福祉×生命倫理」の分野において私は二回心に衝撃を受けた。ひとつは超党派の「尊厳死の法制化を進める議員連盟」が『延命治療の差し控え(不開始)」を希望する意思のある患者について、2人の医師が患者は終末期であると判定した場合は、延命治療の不開始を行った(開始をしなかった)ことの医師の刑事上・民事上・行政上の責任を問わないとする原案を、5月31日付で大幅修正し、人工呼吸器の取り外しを含む現行医療の中止』までに拡大したと新聞報道で知ったこと。
 もうひとつは、ダウン症の出生前診断を国内10医療施設が9月以降にて導入するが、その方法が少量の血液検査であり制度99%であるとこちらも報道により知ったこと。

 尊厳死法案については、そりゃ人間だれしもピンピンコロリで逝きたいものと願うとは思う。けれど、そうは「うまく」死ねない時のためや、大切な人に生きていてほしい時のため。何より、うまくスパッと一発で死ねなそうだけど、でも、生きたい!と思う時のために、医療があるはずではなかったか。そもそも、「あなた様の今のご容態は、『人間の尊厳を守られている状況下に置かれてはおりません(ので死んでOK!)』と定義するときの『人間の尊厳がない状態』とは、患者本人にとっていかなる身体的極限の状態の時なのだろうか。その定義が曖昧であるうちに、尊厳死の選択者が増えるほど恐ろしいことはない。

 むしろ、だれしもが人生を生き抜いた最晩年の枕辺にこそ『人間の尊厳』はいつにも増したクオリティーで他者からも生きて尊重されるべきであって、「これ以上は人間の尊厳が保たれない」と他者から判断をされ得る状況なんて、あるのか?いや「ある」の定義を議員連盟で作ってよいのだろうか。

 また、あくまでも私個人の意見だが、「絶対に見過ごせないこと」として、ALSの方々などに見られる場合がある「ロック・ド・イン」の状態がある。神経疾患や、疾患によっては筋力低下などで、発声ができない、文字盤を目で追いたくても、瞼や目を動かすのも困難、指を一本ずつ動かすことも困難、全身動かず、だがしかし「一切の知能低下はない。意識も鮮明である」という状態が実際に人間の身の上に起こる場合がある。(参考文献として、ジャン=ドミニク・ボビー著『潜水服は蝶の夢を見る』がわかりやすいです)
状況によっては頚椎損傷などの首の骨折、全身やけどやその他大けがでも起こりうるかもしれない。

 「この場合、人工呼吸器を外してよい」と定めされた定義に対する「患者本人にすら想定外の例外」をどう考えるのか。

 これはごくごく個人的な、自分自身に当てはめてみての私の考えだが、私がもし将来的に人工呼吸器を気管切開でつけることがあった場合には、発声ができない可能性が高いと主治医から言われたことがあること。また、人間には「ロック・ド・イン」が何らかの身体的状況により稀でも起こり得ることを考えると、

「待って!まだ少なくとも今日は生きたい!まだ死にたくない!やっぱり生きたいんです!!」

と思っても、その時点には発声ができなくて、腕が、指が、もう動かなくて、瞼の力ではことが足りなくて、でも声が出なくて、そのまま、担当の先生から人工呼吸器を外されてしまったら、自分の選択を呪いながら死ぬだろうから、尊厳死の契約書を目の前に見せられてもサインできない。

 だからって尊厳死に個人的に意志でサインをしている人について批判をしたいとは思わないし、極限の、身体的に苦しい状況で、生き方と死に方をどうしたいという選択は自由意思だと思う。でも、私は、朝と晩でも、今日は良いことがあった日か、それとも辛いことがあった日かという違いでも、昨日と今日でも、先週と今週でも、人間の感情は日々に変化をするものだと考えるから、心は「生きたい」と「死にたい」の間を、余命宣告を受けた日から死ぬ日まで、尊厳死の誓約書にサインした日から死ぬ日まで、何千回、何万回も行ったり来たり揺れ動くものではないだろうかと思う。

 そして、その身体的極限での心の流動を、今日とあすでは人の心は、死にたくなったり、でもまた生きたくなったり、ほんの、(苦しみや痛みと対峙している患者本人にしか、他者からはとてもわからないような)ほんとうに小さなきっかけで、変化をするのだということを、受容する社会であってほしいと思う。

 少なくとも「他者に死ぬべきと定義されても良いいのち」など私はないと思っていて、よほどの大罪を犯して刑罰で死刑にならざるを得ないのでない限り、ふつうの人が、ふつうに生きてきて、最晩年になって、高齢や、大病になってから、
「その時はまわりに迷惑かけないように早く死ななきゃ」と本人が思ったり、
「その時はまわりに迷惑かけないように早く死ねよ」とまわりから思われたりすることが人の常のような世の流れが形作られてしまうことは、自分の胸に在る希望とは違うので、賛同ができない。

 こう書きながらも、実際に尊厳死の誓約書にサインをしている当事者も私は複数人知っているし、その方々が

「全身をもうこれ以上刺すところがないくらいチューブだらけになって機械に繋がれて、人工呼吸器になって意識不明になって自力では意思表示が一切できなくなった状態で、機械の力で生きたいか」

と個々私に聞いた時に、即答でイエス・ノーが言えなかったのも確かである。が、「ロック・ド・イン」をどう考えるか?の答えがまだ自分の中で出ていないうちには、「生きられるうちは生きたい」と答えるしか選べなかった。

 私は、少なくとも生まれた日、全身をもうこれ以上刺すところがないくらいチューブだらけになって機械に繋がれて、未熟児が入るガラスの箱の中に入って、乳児期のうちに2回、心臓の電気ショックの蘇生法をして、助かった。

当時の現場の医療従事者が「延命治療を中止しなかった」から、助かったのだ。
「この子は明日まで生きない」と言われた命が生きることがある。
「あなたは余命3か月です」と言われた命が数年に伸びることも、奇跡の確率でも、大病が完治することもある。
「もうダメだ」から、実際に生還する命がある。その「可能性」をどう見るか、という疑問も残る。

以下はほんとに、ほんとうに、助かったから言えること。
だからこそ、ちゃんと伝えたいことだ。
 
 
私は、医療現場に延命を中止されなくて、助かって、生きて、ほんとうによかった。

素晴らしいこの目の前の世界に触れられて、たくさんの友達もできた。今、そばに、人生の仲間もいる。

「もうこれじゃあこの子は助からないだろうから、殺していいよ、人工呼吸器はずしちゃっていいよ」

と、その日その時、周囲にいたどのお医者様からも判断をされなくて、この世でみんな中に会えてよかった。
 
 
 「いかに死ぬタイミングを見測るか」ではなく、「いかに生命が助かる可能性を広げるか」。医療の意味は、「生かす」であってほしい。時代がどんなに変わっても、そこだけは、不動、不退転であってほしい。

 しかし、この議論は「助かったのちの生活ですぐ起こる問題をどうするか」にも直結をしている。何よりは、「介護」である。発展した医療技術で文字通り「命だけは」助かったとする。しかし、助かったそのあとの一生を、病院に、幾年でも居続けるわけにもいかない、という状況もある。

 高齢者施設も、有料のケアホームなども介護度が重度の方向けの良質の施設ほど「入所まで、何百人の空き待ち」、「予約して、入所できるまで2年待ち」なんて話を、このさいたま市のはしっこのほうだっていくらでも聞く。

 また、若い世代の重度障害者についても、在宅医療的ケアの受け皿が特に少ない現状は同じ。人工呼吸器ユーザーは胃ろうを必要とする当事者の在宅介護を請け負う介護事業所は、極めて少ない。延命医療の発展に対して、在宅介護の現場教育が追いついていないのだ。

 これについては、私自身も、二年ほど前、夜間に人工呼吸器をつけていた時期に、時期が重なり、介助者確保に窮していて他事業所を探したが、さいたま市内約200社に電話をしたうち、私の知る限り、人工呼吸器を必要とする人の介護サービスを「請け負う」と答えた介護事業所は市内に4社だった。他の全社は電話受付の時点で「受け入れた前例がないため、お断り」だった。

 2年前の情報だから今とは異なるとは思うが、さりとて呼吸器ユーザーを受け入れる介護事業所が今では100社に増えているとも思い難い。
地方行政、訪問看護、在宅介護の現場3者の連携が円滑でなければ、いざ人工呼吸器や胃ろうを使用するようになって尚「生きるぞ!」と決めた本人が、再度

「ああ……もう、死にたい、やってられない……」

と精神的に追い詰められる場合がある。

 奇跡の生還まではいいが、介護派遣事業の受け入れ先が無く、在宅生活の活路がない……そのように、「いのちが助かった本人」が再びの絶望を感じざるを得ない介護の現状が少しでも改善されることを望む。そしてこれら医療と介護をめぐる諸問題の改善をすすめるために、社会の中で文字通り「底力」を出せる最たる人材は、人工呼吸器ユーザーや胃ろうを使用して日常を生きている当事者本人と、その家族でしかありえない。

 大病を患った時、全身に大けがを負った時。「生」を望む人、「死」を望む人。けっして片一方ではない、両者の声が公平に政府に届くことを願う。

 今とこれから。延命医療と在宅介護の現場が、

「病院の臨床現場で命を取り留めた人が、医療的ケアが必要な身体となってこの世に生還した時に、再度、ひとりの人間として、望みを持って生きられる、介護体制は作れますか」

という問いに、実践でいかに応えられるか。また「延命医療にできること」の目覚ましい発展を受け止めた上で、在宅介護の現場が、呼吸器ユーザーの在宅介護、タンが詰まったときの吸引、胃ろう使用者の在宅介護など、「介護にできること」の幅を、いかに柔軟に広げられるか、対応できる介助ヘルパーを育てられるか。日本有史以来のレベルで問われている時代が、もう、すでに来ている。

 長時間介護や医療的ケアを必要とする当事者本人も

「呼吸器ユーザーで胃ろうで発声もおぼつかないけど、心豊かに生きているヤツが、ここにいるぜぃ!」

とか、

「末期がんだけど、闘いつつ、今、生きているぜぃ!」

というような声を、それぞれの日常から上げなければならないと思う。

 私も難病当事者としての体験を外へ伝え続けることの責任を私なりに果たすし、世の中がどうでも、時代がどうでも、最期まで、「生きたい!」の声を出せる個人でありたい。そして「生への執着」は「かっこいい」と思いたい。

 生死観の話になったとき
「そんなにまでして生きたいの?」
という価値観の人もいるけれども……また、これは3.11以降の避難や被ばく予防をどう考えるかにも共通をしていることだけれども、
「何、自分だけ助かろうとしてんの?」
「そんなにまでして生きたいの?カッコ悪……」
みたいな発想って、私は違うと思う。

 人は、いついかなる状況下にあっても、最後の最後の最後まで自分の命を守りたいという意志を持って生きようとして良いものだ。その「生きる意志」そのものを失ったら、その人の「それまで」を、生き様や、死に際して伝えたい遺言を、言葉にして他者に託すことが出来なくなる。

 私は今、夫も子供もいないから、意志を託せる「自分の作った、自分の家族」はいないけど、だからって、
「子も孫もどうせいないのだから、世継ぎもないから、いつ死んでもね……」
とは思わない。

 自分の家族がいないなら、今この時代、この日々を、共時を生きる他者へ向けて、もしくはまだ見ぬ誰かへ向けて、語る声を残したっていい。ピンピンコロリでそううまく逝けなかった人の身の内にこそ、凄絶に澄んだことばが燃えているはずだ。

 私は、どう尊厳死を法化に持ってゆこうかという政治家の方々の試案の前に、そのような人間個人の言葉や対話が、もっともっと、公になされ周知をされるべきだと思うし、尊厳死法案それ自体がまず何よりも「ある」ということ、ここ数年動き続けてきたということを「いずれ年老いて医療のお世話になるはずのあらゆるすべての健常者」に知ってもらいたい。

 その辺の、渋谷の街ゆく一般人のほとんどはだれも知らない状態で、ごく一部の当事者と限られた見識者にしかことの次第を知られていない(もしくは知らせていない)状態で、一国の法に直結すること、中でも人の生き死にに直結することを決め急ぐべきではない。

 ただ、私も「全身が日々死ぬほど地獄の責め苦ほど痛いような難病だったら、あなたはそれでも『でも、延命を受けたい』と言えるかどうか」という問いに答えが出ていないから、そこは今生を生きた先で、生きてみながら、年を取れたらもう一度書きたい。

 「如何なる状況下では生きていたい/如何なる状況下では死にたいと思うと思う」なんて、『実際』まで行ってみなければ答えのすぐ出るものではないし、死ぬタイミングの最終判断を事前に決めて他者に委ねて良いのだろうか、やはり何度考えてみても疑問は残る。特に「人工呼吸器の取り外し」。私にとってごく身近なキーワードなので、こう文字にしただけでも恐怖を孕むような問題である。

 こればっかりは「ねえ、どう思います?みなさん?」と、他者に多数決で是非や信を問う話でも、究極的にはないのだろう。

「私だったら、こう考える」

と、己が命の倫理観と何万回でも対話して、でもやっぱり、健常者が大病をしても、ウエルドニッヒ・ホフマン症の最末期でも「生きましょう?」と声かけ合える社会づくりを是と思う一生を送りたい。

 何より、尊厳死法案の存在それ自体について、これを読んでくださる人に少しでも興味を持っていただけたら嬉しい。
「まずはそこからだ」
と思ってゆっくり書いている間に、とても大きな条例や法律が、
「政府のほうで国策として決まりました」
と、3.11以降、どうもいろいろな局面でなっているから、少なくとも、

「人工呼吸器や胃ろうまで使って延命をして生きたってきっと苦しい辛いばかりで幸せな人生が待っているはずがありませんよ」

と、今、思っている方々のその不安を受け止めた上でイメージを変えてゆくためには、私の自力も必要だけど、それ以上に、私と出会って下さった、また、これを読んだり、ツイッターを介して私の事を知って下さった方々の力も必要なんだ!!と切に思う。

 今世の中に起こっている「医療×倫理」分野のことと、こんな障害当事者がこんなことを書いているということ。願わくば、まだ出会い触れ合ったことのない沢山の人へと伝えて欲しい。力添え願いたい。

 現代、あまりにも「自己選択/自己決定」にのしかかる選択肢が多岐に渡る。その中で、一番大変な思いをしている患者本人が肝心のところで

「生きるべきか……死ぬべきか……。っていうかこんなでっかい問題だれに相談すりゃいいんだよ!」

と、いざ大病に伏したとたんに、はじめてづくしで孤立しやすい。

ただ、私は何をどうしても
「……死にたい……」
という人に対して
「死ねば?」とか
「どうぞどうぞ!延命中止、おすすめですよ!!」と言うよりは
(※注 尊厳死協会は尊厳死を「すすめて」はいません。念のため。)

「いやちょっと待て、ちょっと待ってよ、早まるな。」

と少なくとも一回は言いたい人間なので、それに、人工呼吸器も、胃ろうも、在宅の延命医療で幸せに生きている当事者をたくさん知っているので、文字にして留めて置きたく、書きました。

 そもそもデット オア アライブをイメージしての「倫理観」なんて、立ち止って考えたこと、ありますか。わたくしも、腕組みをして考える今日この頃です。

私は寝るのがすきですが、日々の浮世の展開早く、おちおち寝てもいられません。
いろいろあるけど、さあ今日も、元気いっぱい、まいりましょうぞ!

 本人の予想以上に尊厳死法案について掘り下げようとして書き切れなかった為、人生の最晩年の死ぬほうではなくて、赤ちゃんが生まれるほうのお話、「出世前診断に想う事」はまた次回。

連載第3回目。ご清聴ありがとうございました(^▽^)
 
 
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