こんにちは、困ってるズ!です。
今回お届けするのは、
蟻谷佐平さんの「困ってること」です
【私はこんな、困ってるズ!】
ぼくは広島生まれの団塊世代です。建築関係の下請け業で小さな会社を経営していました。40代になって難病を発症しました。で、10余年前に仕事は辞めました。小さいころから絵画や音楽、スポーツなどを友人・仲間と楽しむことが好きでした。今は、2ヶ所の障害者施設に週1回ずつ通所しています。
ぼくは多発性神経炎云々の難病で、原因不明の発症になります。体質なのか遺伝性なのか、職業的に吸った化学物質が原因なのか・・・etc、まったく分かりません。
今年、障害者手帳から介護保険に切り替わりました。つまり65歳になりました。
【私はこんな風に、困ってるズ!】
●書くことについて
ぼくは右手の親指のツメだけ3ミリほどのばして尖らせています。これはパソコンのキーボードを打つためです。12年ほど前から両手の握力を失いはじめて、筆記用具もお箸も握れなくなりました。筆記用具のペンが持てなくなったからと云って筆記したいことが無くなるワケではありません。
しかし、ペンがないと次第に記述することがおっくうになるものです。ワープロ機は必要にせまられて買いました。画面表示がまだ10行足らずの時代でした。稼業の工事見積書などの事務的な書類作成することが目的でした。キーボードの文字配列にとまどいながらも両手でなんとか打てました。
そのワープロからパソコンに替えた頃にはだいぶキーボード操作に慣れていました。がしかし、両手首から先はほとんど動かなくなっていました。ジャンケン遊びをすれば「パー」だけで、「グー」も「チョキ」もできません。
いまは、マウス操作のときは右手で包み、その指のすき間を左手でクリックしています。キーボードは「かな入力」にして打数を少なくします。タッピングは右手の親指のツメの先端を尖らせてその一点で突くように打っています。左右の手の操作が必要なとき、例えばシフトキーを同時に押す操作は、左手首をたてて真上から左親指の腹で押えています。
健常者に較べれば相当遅いことは解っています。でも、記述するスピードと記述したいことを思考するスピードを較べれば、記述するスピードを超えるような思考力は持ち合わせていません。むしろキーボードを打ちながら考え、考えながらひと文字ひと文字打つのは、考えていることを落ち着かせてすこしは整理よろしくして書けているのかも知れません。
●食べることについて
日常生活で食事をするときは、お箸ではなくフォークを使います。そのフォークの柄は右の手のひらに密着して動かぬようにマジックテープで留めるように工夫してあります。そして、ご飯もオカズもみそ汁の具もフォークですくうか刺して食べます。そのときは右手の指に添えるように左手の指をからませて腕の上下で口に運んでいます。みそ汁やお茶、飲み物はストローで吸えばよいので、ほぼ困ることはありません。家のなかでの食事は、食器の形、位置、高さを決めていますから、時間はかかりますがスムースに食べています。
街での外食は好きなものを食べたいものです。お店を選ぶには、まず店の床に段差がないか、扉は自動開閉かを確かめます。店の“のれん”をくぐって入るとテーブルの高さ(高めがよい)、ほかの客との空きスペースが気になります。
次にひまわり号(「ひまわり号」はぼくの黄色い電動車椅子。“わりとひま”から命名)でテーブルに幅寄せが出来るか、うまく納まるかやってみます。納まれば、メニューの中から、口に運びやすく食べやすいものを選びます。そのとき友人や付き添い(以下、サポーター)がいれば料理の選択肢はひろがりますから、普段食べていない料理にも目がチラつきます。
例えばファースト・フード店でハンバーガー、ポテトフライ、コーラのセットを頼んだとしましょうか。コーラはストローで吸うので問題ありません。ハンバーガーの分厚いのは持ちにくいのでパス、薄くて安いのがよいのです。そしてハンバーガーを包む紙袋はジャマになりますから、バーガーをむきだしにしてもらい両手で挟むように持つか、皿の上に分けてもらい、いつものフォークで刺して食べます。
細長いポテトフライは隣のサポーターにお願いすれば、タイミングを見計らい(口をそちらに向けて開けたときに)2,3本ずつ放り込んでくれます。食事を終えれば、口のまわりのケチャップ、ソースの汚れを舌でぬぐいます。ぬぐいきれなければ、隣のサポーターに卓上の紙ナプキンで拭いてもらいます。そして最後に、手伝ってくれた方に軽く会釈して礼を伝えます。
例えば高尾山口に並ぶ蕎麦屋の名物、冷やしとろろ蕎麦を頼んだとしましょう。蕎麦つゆに、きざみねぎ、ワサビの薬味にうずらの卵を割って入れるまでは店の方にやってもらいます。あとは軽くワケを言って、割り箸からいつものフォークに替えます。しかし、蕎麦をフォークですくい、ソバチョコに運び、蕎麦つゆに浸し、とろろの粘りから一口ごとに蕎麦を分けて口のなかに入れるのは、手順が多くて食べることに難儀します。
その結果、テーブルに蕎麦つゆが飛び、あまつさえ蕎麦の切れっぱしまで落ちるとなりますと、情けない思いで、別のものにすればよかったと後悔をします。でも実際は、サポーターか誰かが先に気づいて、美味しく食べられるように助けられ、ショゲたことはありません。
例えば老舗の高価なうな重を頼んだとしましょうか。うるし塗りの重箱に入ったかば焼きでご飯のおもてが隠れるほどの豪華さに加えて、ご飯のなかにもう一枚のかば焼きがサンドイッチ状態になって、さらに肝吸い付きのゴックン品だとしましょう。でもこれが困ったことになります。お解りでしょう? いつものフォークを取り出して、漆塗りの器を傷つけぬように食べるのは冷や汗ものです。傷つけぬことに神経が集中してしまい、もはや賞味しているの、堪能しているのと云った気分には到底なれません。
目の前の店主の咳払いさえも想像して聞こえそうだし、ウチワのパタパタもこころなしかせわしそうに思えて、ぼくの心臓は早鐘を鳴らしています。その結果、箱の隅っこのタレのしみ込んだ美味しいご飯を残してしまい完食といきません。でも、首をすくめてそっとご主人の様子を窺えば、「そんなことはあなた、重箱の隅つつくようなことしねぇよ」と、気にする風のない職人然としたつややかな顔にほっとします。
【困ってるズ!になって思うこと】
いいサポーターは、プロとかアマとか資格の有無とか技術の優劣とかの差よりも、寄りそう心、寄りそいたい気持ちを露わにできる方達のことと思います。そう云う方達は普通の市民として、街の中にたくさんいます。ましてや家族、友人、仲間、ちょっとした知人であれば言わずもがなです。
努力の最初の一歩は、意思表示する勇気と思います。私がここで述べたかったことは、周りへの日常的な信頼です。 サポーター(介助の意)が働きかけやすくするための意思表示は不可欠です。
啓発バッヂのアイデアは素晴らしいと思います。ひとは正しく認識すれば、やさしい感情が働きます。ぼくは難病指定から13年経ちますが、そのように結論付けています。むしろ健常者のままの人生でしたら経験し得ないような仕合せを感じています。
(了)
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