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第三回: きゅうてんちょっか

 
1 知ってもらいたいこと

さぁ。ここでいよいよ、「障害者自立支援法違憲訴訟」本体のお話になります。本来であれば、原告の主張と、国の反論をくわしく紹介するところです。私も最初、そんなノリでだいぶ書き進みました。でも、そこから現在へつながる「流れ」を見たとき、大事なのはそこじゃないんです。いや、大事なんですけど、知っていただかなければならないのはそこではない。なにより、訴訟の内容に踏み込むと、どうしたってマニアックで難しい話をせざるをえないです。

でもその注意を、もっと大事なところに費やして欲しいと思いました。原告たちと国が、なぜ、どのようないきさつで、始まったばかりの訴訟を和解で決着させたのか。そっちの方が大事なんです。

弁護士として、法律論を捨てて訴訟の話をするのはけっこう思い切っています。「どうせ裁判本体に参加してへんからわかれへんねんやろ〜。」というツッコミは2割くらい当たっていますが、内容よりも今に至る「流れ」に重心を置きながら、お話しましょう。
 
 
2 訴訟のはじまり

(1) 憲法訴訟の難しさ

「障害者自立支援法違憲訴訟」という名前からもわかるように、この裁判は、めちゃくちゃ端的に言うと、「障害者自立支援法という法律が、憲法に違反している(ので、それに基づく負担を免除してください。)」という裁判です。

中学校の社会科(公民)の授業で、日本は三権分立を採用している、という話を聞いたことありませんか? 国会は、法律を作るために存在します。そしてその法律は、国のあり方の根本原則を定めた憲法に反するものであっちゃいけません。万が一、憲法に反するような法律を作った場合、裁判所のみがツッコミを入れることができるようになっています。

でも、法律を作ることを専業にしている国会が、うっかり憲法に違反するような法律を作るなど恥ずかしいにもほどがありますし、裁判所もそんなに立法に詳しくないので、空気を読んであまりツッコミを入れようとしません。憲法訴訟とは、こんな国会と裁判所の関係をぶちやぶるものなので、独特の困難さがつきまとうのです。どれだけ難しいかというと、終戦後、日本国憲法になってから現在までの約70年の間に、「その法律、憲法違反です。」と最高裁判所が判決したのは8件しかありません。

(2) 原告の主張

さて、それだけ難しい訴訟で、原告が主張したのは大きく分けて(めちゃくちゃ大きく分けて、ですが)3つです。

 1つは、第2回でも紹介した生存権(憲法25条)。
 もう1つが平等原則違反(憲法14条)。
 そして最後に、幸福追求権違反(憲法13条)。

これらは、条文番号だけ上げれば3つだけになりますが、それぞれ複雑に関係しあっています。幸福追求権などと言ってしまうと、「私の幸せも保障してよ。」みたいな気分になってくると思いますが、そんな国語的な意味の権利ではないのです。

全国共通して主張したのが上記3つの権利でしたが、これらをどのように位置づけて、どのように主張するかは、全国的な議論を前提にしながら各地の弁護団に任されました。・・・そらぁね。日本は小さな島国とはいえ、みんな全く同じ主張にできるほど弁護団会議開けませんって。ですので、どの権利に重きをおいた主張にするか、その戦略のたて方は、各地の弁護団の裁量にある程度任されていました。

(3) 10か月間

どの権利が、どのような条文によって、どのように違反しているか。裁判所は、この法律をきちんと知っているわけではありません。障害者福祉制度そのものを裁くような裁判ですから、そもそも「なぜ障害者自立支援法ができてしまったのか」をゼロから説明しないといけません。「だから憲法に違反している。」という結論にたどり着く手前の説明だけで大変なのです。

諸外国の法制度と比較し、国際条約と比較し、障害者自立支援法制定時の国会答弁を紐解き、時には学者さんから意見を伺ったり、弁護士は福祉に疎いので常に障害者福祉の現場にいる支援団体の人々の協力を仰ぎながら、各地の原告団と弁護団は、気の遠くなるような説明につぐ説明をしていきました。

訴訟とは、まず、原告の言いたいことを「広く、浅く」まとめた「訴状」を提出することで始まります。そのあと、裁判がスタートすると、細かく論点ごとに、「狭く、深く」書面で主張します。原告がそういった書面を出すたびに、被告の国も反論の書面を提出するのです。そんなやり取りを、お互い「もうこれ以上言うことないわ!」と納得するまで延々と続けます。

この裁判なら、たぶん何十回と往復しないと言い分を出しきることはできなかったでしょう。ところが、やりとりが全国的に数回往復したところで、私たちの訴訟記録は終わっています。本当に、入り口でした。
 
 
3 早すぎる展開

(1) 風向きが変わった

2009年8月30日。この日、衆議院総選挙が行われ、「障害者自立支援法を廃止する」ことをマニフェストに掲げた民主党が安定多数の議席をとりました。その2年前の2007年には、参議院選挙によって民主党が大勝していたことから、民主党による政権交代が実現したのです。そして、同年9月16日に、鳩山内閣が正式に発足しました。

するとその3日後の19日、鳩山内閣の長妻昭厚生労働大臣が、障害者自立支援法の廃止を記者会見で表明したのです。その記者会見後に開かれた最初の弁論は広島地裁でした。

一体国が何を言い出すのか、大注目が集まる中、国は「訴訟のあり方を検討するために、時間的猶予をください。」と言いました。

・・・マジっすか・・・!?

国が、「話し合いで解決したいな〜」って思っているということです。

普通の、個人対個人の裁判だって、主張をぶつけあっている間に和解が成立するとかありえないんです。だって、一度がっぷり四つでケンカ状態に入った人間があえて和解するのは、ある程度勝負の行く末が見えるから。そして、結論のめどがつくのは、ある程度お互いの主張が出尽くしたあとなんです。こんな、まだ試合開始のゴングの余韻が残っているような段階で話しあおうなんて、聞いたことがありません。

(2) 一同騒然

ここで、一同超パニックですよ。

裁判は、この広島地裁を皮切りに、全国の裁判で「ちょっとタイム」状態に突入しました。それと相前後して、裁判とは関係なく、新政府と官僚を交えて、本件訴訟をどのように終わらせるかについての話しあいをしませんか、という提案が、国から持ちかけられました。

まず、この話しあいのテーブルにつくかどうかすら、原告と、支援者と、弁護団とで協議しないと判断がつきません。だって、確かに政権は交代しましたけど、やる気マンマン、交戦状態の相手からの突然の「和解しよう」です。ワナとか裏切りとか謀略とかだまし討ちとか、いろいろ黒いことを考えるじゃないですか。

その後、政府・官僚・弁護団・原告団・支援者が、入れ代わり立ち代わり、新政権は障害者自立支援法をどうするつもりなのか、どうしたら和解で裁判を終われるか、その案が納得できるものであるとして、途中で裏切られないという信頼をどう確保するか、めまぐるしく協議が繰り返されました。

それこそ「ふたいてんのけつい」で裁判に臨んだ原告たちです。「法律をやめにするから和解しよう。」と言われただけで簡単に「うん、わかった。」とはなりません。和解で終了したからには、あとで話しますけど、それなりの国の態度があったわけです。原告たちは、とりあえず話し合いのテーブルにつこう、ということにしました。
 
 
4 それぞれの決意

(1) 国(民主党)

現在の姿からは想像もつきませんが、発足当時の民主党政権は、本当に熱意にあふれた態度で原告たちに語りかけました。最初、訴訟団(原告団+弁護団)に対する、厚生労働大臣政務官からの和解の趣旨説明のときには、「同法廃止は政府の方針であり、そんななかで国は訴訟において原告と対立して争うことはできない、同法を政府の立場としてお詫びして原告の思いに適えたい」と言っていました。

その直後、障害者自立支援法成立の日である10月31日にあわせて毎年行なってきた、日比谷野外音楽堂での全国大フォーラムの場にも厚労省大臣政務官が登壇して、涙を流しながら「応益負担を課したことを悔やみ、ともに新しい法律を作ることを決断した」と語ったそうです。

この時、民主党のだれも「不退転の決意をもって・・・」なんて言いませんでしたが、その背中からは感じられたのは、紛れもなき「ふたいてんのけつい」でした。

その姿を、原告たちは見ていました。

(2) 原告

障害者福祉の歴史は、国に期待しながら裏切られ、の連続。それがあまりにもひどかったからこそ、全国で立ち上がって裁判まで起こしたのです。いくら政権与党が涙を流して謝ったからといって、簡単に信じられる原告ばかりではありませんでした。当然、「それは国のペースに乗るだけだ。」「あとで守らなかったらどうする。裁判で闘う土俵だけは残しておくべきだ。」という主張も根強かったのです。

信じられぬなら、国の和解の提案をけって裁判を続けてもよかった。弁護団は、原告71人中、1人でも「どうしても和解を受け入れられない」ということになれば、裁判を続けるつもりでした。絶対に多数決で結論を出すことはしない。和解するのは、原告全員が一致したときだけ。その覚悟で、71人一人ひとりと話を続けました。

ただ、民主党は、障害者自立支援法の廃止をマニフェストに掲げて政権をとった政党です。ここで今、このタイミングで基本合意を結べば、民主党がつくろうとする新しい障害者福祉制度に、自分たちの意見を反映させる「仕組み」を残すことができる。気の遠くなるような長い長い裁判の結論など待っていられないのも事実でした。2009年末から2010年年始にかけての怒涛のような協議の結果、1人の反対者もなく、2010年1月7日、原告団と、国との間で、いわゆる「基本合意」が締結されました。

最後にもう1度だけ、国を「信じる」。

これが、原告たちの、ふたたびの「ふたいてんのけつい」です。
 
 
5 うわさの「基本合意」

このようにして、国民の支持を受けてようやく政権交代を果たした民主党政権と、原告たちとで全身全霊をかけた共同作業の結果として生まれたのが、「基本合意」という約束です。

裁判所から判決という形で一方的に命じられたものではなく、お互いが納得の上でできあがったところに最大の意義があります。成立のなりゆきだけでかなり異例ですが、その中身たるやもっともっと異例です。なんでかっていうと・・・あ、しまった。

話が長すぎてくまくんが寝てしまいましたね。
起こすのもかわいそうなので、続きはまた、今度ということにしましょうか。
 
 

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