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Nothing about us, without us!

第五回: あしたのせっけいず

 
1 冬眠しちゃってた

 冬ですしね~。寒いからね~。冬眠をし・・・ちゃっ、て、あ、やめてやめて、空き缶投げるのやめて、痛いから!

 この間、なぜ私が冬眠していたのか。その理由は、これの次の回で微妙にわかると思いますので、しばしのご辛抱を。あ、くまくんも一緒に冬眠してたみたいです。なにせくまですからね。寝起きで眠そうなので、若干おさらいしましょう。

 あたかも「ハンディキャップ税」かのように、普段の生活のあらゆる場面で用いる福祉サービスに対し、応益負担を強いられた障害者たち。数次の提訴を経て、全国で合計71人の原告たちが国を訴えるために立ちあがりました。気が遠くなるような年月をかけて、損なわれた尊厳と生活を回復するために、ふたいてんのけついをもって臨んだ原告たちでした。(第2回:ふたいてんのけつい)

ところが、一番初めの提訴から1年もしない2009年秋、突然の政権交代により事態は一変します。民主党政権初代総理大臣の鳩山氏は、首相就任直後の記者会見で障害者自立支援法の廃止を明言し、裁判所の判断である「判決」を求めることなく、お互い合意の上で「和解」という形で訴訟を終わらせる方向へ転がっていきました。(第3回:きゅうてんちょっか)

果たしてこの新政権は、約束をしたところでそれをきちんと守るのか。裁判所に「憲法違反だ」と言ってもらった方が良いのではないか。しかし、これから新政権が、新しい障害者福祉制度を作ろうとしている横で、裁判を続けることにどれだけのメリットがあるのか。原告たちは大嵐の中で迷い続けます。その結果、もう一度だけ国を信じ、「Nothing about us, without us!(私たち抜きに私たちのことを決めないで)」のスローガンを実現すべく、国と共に歩むことを決意しました。

2010年1月7日、原告たちは、国との間で「障害者自立支援法の廃止」「今後、共に障害者福祉制度を作り上げること」などを内容とする「基本合意」という名の約束を交わし、順次和解という形で裁判を終わらせていきました。(第4回:わたしとあなたがかわしたやくそく)

 つまり、新しい制度を作るのは、これから。和解は、「はじまり」にすぎず、原告たちをはじめとする全国の障害者たちは、「自分たちの望む制度を作る」という、未体験のミッションに取り組み始めることになったのです。
 
 
2 障害者制度改革推進・・・

 国と、原告たちが基本合意を結ぶ約1か月前の2009年12月、内閣の全閣僚がメンバーとなって、「障がい者制度改革推進本部」というものができました。民主党が、マニフェストに基づいて障害者の制度改革を行う総本山みたいな組織です。

 そして、基本合意調印の5日後である2010年1月12日、「障がい者制度改革推進会議」というものができました。これが、制度改革全体の実働・推進部隊みたいなもの。あ、「会議」ですからね、「推進会議」。私もよく「?」ってなりましたよ。「本部」と「会議」は間違えないでくださいね。

 「推進会議」の下に、個別論点ごとに部会が設けられました。この連載が問題としている、障害者自立支援法に代わる新法について議論をするための会議が、「総合福祉部会」というものです。
 

障害者制度改革の推進体制

fig. 障害者制度改革の推進体制(厚生労働省のページから引用)


「私たち抜きに私たちのことを決めないで」の理念を正直に実現しようとして呼び出された構成員は55人。障害当事者、支援者、障害当事者の親族、学者などなど、それまで障害者福祉に直接・間接で関わってきた人が盛りだくさん含まれていました。私の高校のときの1クラスが40人だから・・・け、結構な人数です。これだけの人数で合唱したら、かなり重厚感ある音が作り出せそうです。あ、私、合唱部だったんですよ、ずっと。
 
 発足した当初の民主党政権は、障がい者制度改革に意欲的でした。そらそうです。マニフェストに盛り込むくらいでしたから。なので、マニフェストに基づいて、内閣の中にこういう会議を作ることは、基本合意を結ぼうが結ぶまいが、ある程度予定されていたことでした。この会議にどれだけ当事者を参加させることができるか。どれだけ障害者権利条約の理念を盛りこませることができるか。この流れに、できるだけいい形で関わって法律そのものを変えてしまったほうが、訴訟を続けるよりも目的は達成されるだろう。そんな狙いもあって、2010年1月7日の基本合意は締結されました。おかげさまで、基本合意は、2012年現在も息づく見事な影響力を発揮しています。
 
 
3 総合福祉部会(勝手に通称、55人委員会)

 さて、そうやって呼び出された55人の中には、障害者自立支援法違憲訴訟に関わった者が多く含まれていました。原告訴訟代理人弁護士、支援者の一部も、その中にすべりこんでいました。

 当事者か支援者か親族か、身体障害か精神障害か知的障害か難病か、こういった要素をすべてかけ合わせると、55人55色の立場の違いがありました。ぶっちゃけ、「自立支援法はアカン」という点でさえ、55人全員でどれほど共有できていたか、実は怪しいものです。そんな中で、互いに「どおも、はじめまして♪」みたいな状態からスタートして、わずか2年足らずの間に、全国すべての障害者をあまねくフォローする福祉制度のあり方を考えてください、というミッションです。いやいや、そんな短期間、更地から東京スカイツリー作るほうがなんぼか簡単やろ、というレベルのミッション・インポッシブルでした。しかし、障害者福祉の歴史上、初めて与えられたといっても過言ではない「私たちが私たちのことを決める」チャンスですから、55人のやる気はそりゃあすごいものでした。

 まず初めに、これから新しい法律を作るにあたり、よって立つべき「柱」が何であるか、確認されました。それは大きく2つ。

1つは「障害者権利条約」。これは、2006年12月、国連において、障害者の人権に関する世界基準を定めた条約です。日本はこれに署名をしていますが、「批准」つまり、日本国内で効力を持たせる形にはしていません。だって、「応益負担」とか言ってる時点で、障害者権利条約に後れまくってますから。現在の障害者福祉関係の各法律とこの条約は抵触しまくるのです。また機会があったら、障害者権利条約を流し読みしていただくといいと思いますが、「絵に描いた餅!?」と言いたくなるほど、今の日本からは進んで見えます。しかし、批准国数は112カ国(2012年4月7日現在)ですので、そこんとこよろしく。世界的に、特別新しいことを言っているわけではないんですね。新法は、せめて障害者権利条約を胸張って批准できる福祉制度にすることも、1つの目標にしていました。

そしてもう1つは、かの「基本合意」です。この2つに流れる思想、理念、趣旨に沿った新法を作ること。このことは、推進会議開催中、何度も繰り返し確認されました。いろいろな立場の人が全力で向き合った推進会議、総合福祉部会でしたから、空中分解しそうになることも1度や2度ではありませんでした。しかし、そのたびに「基本合意」の理念が確認されました。「基本合意」は、新たな制度改革のコンパスの役割をはたしてきたのです。

 この会議(推進会議と総合福祉部会)で具体的に何が話されたのか、それをすべて詳しく説明することは、このお話に求められていることではないでしょう。たぶん、おそらく、私の連載のとなりでいつまでも「Coming Soon」になっている、せちろうさんの「傍聴記」で解説されるはずです。(ねっ!)
 
 
4 じゃま?

 そうやって、内閣の主導で始めた障害者制度改革なのだから、いらんことしなければいいのに、がんばっている総合福祉部会の横でしっかりと邪魔は入ってきました。

 総合福祉部会は、2013年8月の新法施行を目指していました。その時期の施行を目指すなら、逆算すると自分たちに与えられた提言のリミットは2011年8月。そこまでに、全く新しい法律を創り上げるつもりで日夜必死の議論を続けていました。

 ところが、議論まっただ中の2010年4月27日、自民・公明からなぜか障害者自立支援法改正案が国会に提出され、これまたなぜか民主党が若干手直ししただけでこれを成立させてしまおうという話が持ち上がったのです。まったく突然の話でした。

 普通、内閣の呼びかけで55人もがんばっているのだから、「新法を待ってられない事項の改善のために、ちょっとだけ改正するからね。」と一声あってもいいところ。総合福祉部会になにも言わずに、勝手に国会に持っていってしまいました。この後鳩山首相(当時)がいきなり辞めてしまった(な、懐かしい・・・)ので一旦流れましたが、その次に菅直人氏が総理になると(やっぱり懐かしい・・・)、何事もなかったかのように改正法が成立してしまいました。2010年12月のことです。

 たしかに、この時の改正も含めて、順次内容的に「改善」した点もありました。違憲訴訟で問題にした「応益負担」の条文なんかは、いつの間にやら削除されましたしね。なので、頭ごなしに「なんじゃこんなもーん!」って、言えないのです。人によっては「よかった〜!」ってバンザイする人も当然いました。ただ、「あるべき障害者福祉制度」を真剣に議論中の総合福祉部会からしたら、「いや、そうやねんけど、先に一言言ってくれたらそこちょっと直したやん。」という点もやっぱりあったわけです。

 するとですねぇ、せっかく「新法作るぜ!」と一致団結していた人々の間に、「改正バンザイ派」と「微妙派」と「なんでやねん派」と、いろいろ出てきてしまって話が滞ってしまうのですよ。なんでそういういらんことをしますかね・・・

 こんな感じで、ただでさえ「55枚岩」な総合福祉部会は、さらにたまに上から障害物が降ってくる、「55人56脚障害物競走」状態だったのです。
 
 
5 定期協議

 実はあまり知られていない(かもしれない)のですが、この総合福祉部会とは別に、障害者自立支援法の元原告らと厚生労働省は、新しい制度の制定過程を訴訟団に還元してもらうべく、定期的に協議することが基本合意で約束されていました。新法制定の約束とひきかえに、訴訟を取り下げたわけですから、あとをほったらかしというわけには行きません。原告たちは、進捗状況を聞かせてもらう権利がある、というわけです。第1回定期協議は、14地裁最後の和解がもたれた2010年4月21日。

 「定期」協議というからには、一定期間ごとに報告会みたいな会合がもたれるべきところです。ところが、華々しく第1回が持たれて以降、厚労省に連絡しても連絡しても、なかなか日を入れてもらえない日が続きました。2回目がようやく入ったのが、4で紹介した改正障害者自立支援法が成立したあとの2010年12月。第3回は、なんと骨格提言がだされたかなり後の2011年12月。どこが「定期」やねんな・・・ あ、年1回か。アハハハ・・・
 
 
6 わたしたちの設計図〜骨格提言

 まぁ、そんなこんなでなんやかんやあったわけですが(ざっくりしすぎ)、2011年8月30日、55人全員で、「とりあえずこういう感じで障害者総合福祉法(仮称)を作ってください!」という設計図〜骨格提言を発表しました。総合福祉部会員だった違憲訴訟弁護団の先生などは、条文も整えて「法律」の形で出したかったようです。ただ、弁護士ばっかりでもなかったので、「提言」という形で成立しました。

 途中、なんども議論が白熱し、空中分解の危険もあったと聞いています。それぞれの障害種別、立場の差、いろいろ反映させたいこと、譲れないものがあったわけですが、「Nothing about us, without us!(私たち抜きに私たちのことを決めないで)」を実現する、ただその一点を支えにして、1つの提言を作り上げました。

 骨格提言本体は、A4印刷で優に120ページにも及ぶ一大巨編です。さすがにこれを全部読んでください、とは私もよう言いません。とはいえ、なんにもなしというのもアレなので、総合福祉部会員と、部会員全員に思いを仮託した全国何百万人の障害者の思いの詰まった、骨格提言「前文」だけ、ここにご紹介しましょう。
 

■ 改革への新しい一歩として

 わが国の障害者福祉もすでに長い歴史を有しておりますが、障害者を同じ人格を有する人と捉えるよりも、保護が必要な無力な存在、社会のお荷物、治安の対象とすべき危険な存在などと受けとめる考え方が依然として根強く残っています。
 わが国の社会が、障害の有無にかかわらず、個人として尊重され、真の意味で社会の一員として暮らせる共生社会に至るには、まだまだ遠い道のりであるかもしれません。

 そのような中で総合福祉部会に参集した私たちは、障害者本人をはじめ、障害者に関わる様々な立場から、違いを認めあいながらも、それでも共通する思いをここにまとめました。ここに示された改革の完成には時間を要するかも知れません。協議・調整による支給決定や就労系事業等、試行事業の必要な事項もあります。
 また、本骨格提言に基づく法の策定、実施にあたっては、さらに市町村及び都道府県をはじめとする幅広い関係者の意見を踏まえることが必要です。

 私たちのこうした思いが、国民や世論の理解と共感を得て、それが政治を突き動かし、障害者一人ひとりが自身の存在の価値を実感し、様々な人と共に支えあいながら生きていくことの喜びを分かち合える社会への一歩になることを信じて、ここに骨格提言をまとめました。

 今、新法への一歩を踏み出すことが必要です。

 平成23(2011)年8月30日
 障がい者制度改革推進会議総合福祉部会

厚生労働省 障害者制度改革推進会議 総合福祉部会のページから引用

 さて、ここまで読んでいただいたあなたなら、この前文に込められた、「願い」とも「祈り」ともつかぬ何かを、なんとなく感じとっていただけるのではないでしょうか。

 それまで、連帯と分断を繰り返してきた歴史を考えれば、このように1つの提言を生みだせた事自体が革新的でした。さらに、この提言を新しく作る制度に、現実に影響させられるとは!

 この達成感と、喜びと、そして一抹の不安は、言葉に替えようもありません。
 
 

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