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こころの生活。

痛みの始まり

 

こんなに疲れやすかったかな。
どうも身体が思うようにいかない。

最初はそれくらいだったと思います。
朝5時すぎに起きてバイト、合間に学校へ通って、夜の11時頃までバイト。
学費と卒業後の開業資金にと、こつこつ働く貧乏学生でした。

人生の岐路は間違いなく20歳。
だけど同時に、自分にとってかけがえのない喜びを感じていたのもこの頃でした。

志を同じにする仲間、一番自分が自分らしくいられた最高な日々。
ハードな生活の中に仕事も勉強も遊びもびっしりで、楽しいと思えることであふれていました。
家族と呼べる友達との出逢いは、生涯のたからものです。

 

まさに青春を謳歌するべく爛々とした日々に生じたほころび。

それが頭痛でした。
頭痛がとまらなくなったんです。

もともと弱めの頭痛持ちではあったので、はじめは「疲れかな?」「ドカンとくる間隔がせまいな」程度に思っていたんですけど、1ヶ月くらい痛みが続いた頃、「これは何かある」そう感じるようになりました。痛みの強さも増し、押しつぶされるような痛みや搾られているような強烈な痛みにめまいがしていました。
1日に何度かトイレに駆け込んで吐くようになり、朝起きてオエ。バイトが終わってオエ。電車にのれば途中下車してオエ。腹筋がびっしり割れるくらいよく吐いていました。

 

最初は、違和感でしかなかった疲労感や身体の強張りも、1年か2年も経たないうちに、明らかな異常として感じるようになっていました。

原因を見つけるべく母が勤めていた病院で検査することになり、診察を重ねました。
もうこの頃には疲れとかそういうレベルではなかったので、脳に腫瘍や異常が見つかることは覚悟の上でした。ただし待っていたのは見事な肩すかし。
結果は問題なしで健康そのもの。

この疲労感と痛みはどう説明すればいいの…、家に帰ってCT画像を見つめてもそこに答えはない。専門分野じゃないから、画像を見たって大したことは分からないけど、自分の部屋の机でじーっと見つめていたのを覚えています。

その病院には有名な脳神経外科のドクターもいて、担当医と一緒に診てくれたこともありました。とはいえ、おかしなところが画像や数値に出てこないと主治医もピンと来ないようで、診察を受けてもお互いに首をひねりかしげるだけ。
答えにたどりつかない診察は、お互いにしんどいものだったはずです。それでもとにかく話をよく聞いてくれるドクターだったので、それは大きな救いでした。

毎回の診察が30分以上だったと思います。広い知識と豊富な経験。穏やかな人柄。ひとつひとつの言動から、真剣に向き合ってくれているのが伝わってきて、心強かったのを覚えています。
今の時代、こんなに素晴らしいドクターに恵まれる患者はそうはいないはずです。本当にありがたい時間でした。

 

残念だったのは、それでも原因が見えてこなかったこと。
日を追うごとに疲労感と痛みが大きくなっていくのを感じていました。

起き上がれなくて布団から出られない日もぽつりぽつり。
頑張っては限界を超しバタン、頑張っては限界を超しバタン、その繰り返しでした。
学業、仕事に支障がでてくるのにそんなに時間はかからず、すべてが右肩下がり。

なぜか手元がくるうこともあって、物をよく落とすようになり、バイトの時にお客さんにお金を放るように返してしまったこともあります。記憶力もガクンと落ちて、一時的に自分の名前を思い出せなくなったり、頭の中で物事を組み立てることが難しくなっていきました。

症状だけみれば、「これはただごとじゃない」という事もあったので、どこかに原因が隠れているはずだと、恐さを感じていました。自分の身体が思うようにならないことへの戸惑いと、ただただ症状が悪化していくのを見ているだけの不安と焦燥感、このとき抱えてた気持ちは今でも思い出したくありません。

 

もうダメだ。
これ以上はきびしい…。
仕事をしていて、勉強をしていて、友達と話をしていて、街中の喧騒にまぎれていてもそう。
その場で崩れ落ちそうになる瞬間がたくさんありました。

だけど、そんなときに気持ちを繋ぎとめてくれるものもありました。
通っていたのが医療系だったこともあって、アドバイスやヒント、支えになるものが幾つもあったんです。教員や友人の励まし、通院する患者さんのたわいもない会話のなかにボソッと出てくるエッセンス。表情や言葉からたくさんのことを学びました。

いろんなものから立ち直るきっかけをもらえた気がします。そのきっかけを自分のなかで育てて大きな樹にする。気持ちを奮い立たせて、鼓舞し続けました。
頑張れ自分。しのげ、耐えろ、乗り越えろ…!
それができたのは、まわりの存在あってこそでした。
感謝してもしきれない。人生をかけてありがとうを伝えたい人たちが沢山います。
本当にありがたいかぎりです。

だけど、思いもよらないところでグサリ。
そんな出来事もありました。

ぷちぷちっと薬を押しだすシートから薬を出せない。
3日間寝込んだ日、憔悴した身体に力が入らなくて薬が飲めないときがありました。

やっと布団から這い出して、震える手でそのシートを持ちながら、薬を出してほしいと父に頼んだときのことです。あの頃、部屋から1歩も出てこない僕を父がどう見ていたのかは、今でもよくわかりませんが、そのときに何事もなかったようにそっぽを向かれたことは一生頭から離れないと思います。目の前には動けない息子、それを何事もなかったように無視した父。
思い出すだけであの瞬間に感じた喪失感を生々しく感じる嫌な記憶です。

生活が立ち行かなくなった、身体が変だ、
抱えてた不安を一気に打ち明けて助けを求めたときも、父は関心をよせませんでした。
あんなことがあったよ、こんなことがあったよ。
そんな風に会話に団欒がある家族ではなかったけれど、お互いがお互いを大切に想っているのは感じるあったかい存在でした。

今でこそ、目で見えないことを察したり理解することの難しさや距離感のとりかたの難しさ、戸惑いは、すこしだけ分かる気がしますが、生活も完全に狂っていたし、目に見えるものだってあの頃は沢山あったと思うので、それを見ている家族の反応が信じられなくて、「うそでしょ?」「どうして?」その連続でした。

父に崖からぽんと押され、「え?」と想いながら落ちていくだけ。
そのまま地面に叩きつけられれば起き上がって、ほかの誰かに「おーい」と叫んでみたかもしれないけれど、どこまで落ちても地面がないような感覚でした。

世界一の家族。
へんてこな部分は沢山あったけど、愛してやまない5人の家族。
父だけでなく、絶対的な信頼をよせていた家族のみんなが、同じ屋根の下で寝込んでいる自分を横目に、淡々と自分の生活をしていることに戸惑い、翻弄されていました。
父とのことがあって、ほかの家族にはもう自分から「助けて」とは言えなくなっていました。余裕がなかったんでしょうね。

この頃のことを書くと、どうしても家族を悪く言うような文章になってしまうので、どう書こうかとても悩みました。家族それぞれが抱えていたもの、汲んでいたもの、見守っていたもの、それぞれに想いがあって、それが噛み合っていなかったことを知っているからです。家族みんな、友人みんなにそれぞれあったかい想いがあったはずです。だけど、この頃はそれをお互いに表現できていなかった。

だから傷ついたし、痛みが強くなればなるほど、どんどん孤独感が大きくなっていきました。
家族ってなんだろう。友達ってなんだろう。
そう考え始めたのもこの頃です。

 

答えのないまま、症状だけが増えていく戸惑いと不安。そして周囲への不信感。
この頃はただそれだけを抱えていたんじゃないかと思います。
強張りを痛みと感じるようになって、皮膚や筋肉が違和感たっぷり。身体のいろんなところが腫れているような感覚だったので、触れられることを避けるようになったのもこの頃だったと思います。

 

人生の岐路で味わった最高にハッピーな幸せと、きしむような苦しさ。
本当に何が起きるかわからない。それが生きてるってことなんですかね。

思い出せば思い出すほど、血が出る思い出。
つづきはまた今度にします。

 

季節は大雪、第62候、熊蟄穴(くまあなにこもる)です。
この原稿を書いているうちに、季節がいくつも進んであっという間に冬になってしまいました。
今年の秋は、落ち葉をひろったり、身近な木々の様子をじっくりと見ることができました。1枚1枚の紅葉の仕方のちがい、あざやかな色の変化。いろんなことに驚いた秋だったように思います。

早いもので年末まであとすこし。
みなさんにあったかい時間が恵りますように。寒さの折、御自愛ください。
よいお年を。

 

ごーし

 

 

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高櫻 剛史

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