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こころの生活。

番外編 Part.2 「実感していること」

 
 
自分の命を豊かにするのは自分の感じ方や捉え方次第なんだなと、最近実感するようになり、10年かかって、やっと穏やかな気持ちが生まれてきました。
心持の変化。そんな今を綴ってみようと思います。
 
 

触る、食べる、動く、眠る。

本来なら人生を彩ってくれるはずの感覚を痛みとして感じてしまう。
薬によって一時的にでも、気を紛らわせることも出来ず、常に一定以上の痛みがあるというのは、想像していたよりもずっと過酷でした。

若さ、勢い、夢に向かう志、そんな青さ満天な頃に、あなたの居場所はここだよ、と入れられた、痛みと闇が渦巻く狭い部屋。
当たり前だった生活が、非現実的で遠いものになっていく中で感じる失意は、心の生気を奪うには十分すぎるエネルギーを持っていました。
ひねくれ、素直になれず、自分の人格がきしんで、崩れていくのを感じてきました。

理解を求めてもなかなか分かってもらえず、ときには不信感が募ってしまい、身近にいてくれる人を避けるようになり、病気のことや、辛い気持ちを話すのをやめました。
 
 
手を伸ばすことに疲れ、空っぽになった自分を感じてからは、痛みしか感じない日々に辟易していました。病気になって失うことは目立つので、気づけたこと、感じられることがあったとしても、病気になってよかった、なんて、心から思えたことは今まで一度もありません。
そう思うことがあっても、自分を慰めるためか、納得しようとしているか、戒めのようなもので、すこし無理した感じ方だったように思います。
 
 
想像していたのと違ったことは、身体のことを打ち明けて、胸の内の感情を表に出せたのが、身近にいる数人だけだったということ。
頼りたかった人はいたけれど、理解してもらうという作業も根気も、お互いの気持ちもタイミングも、本当に難しくて、ましてや自分が元気ではないので、うまく伝えられないもどかしさがあったりもして…。

けれど、
ほんの数人。
そんな彼らがいてくれたことが、闘病にとって、僕の人生にとって、どれだけ大きかったか…。
そんな当たり前のことを、最近になって、ようやく感じられるようになってきました。
要のような存在なんでしょうね。彼らがいてくれたから、今の自分がいるのは間違いないと思います。腐っても朽ちなかったのは彼らのおかげです。
 
 
そして、この身体になって変わってしまった生活や人生の中に、この日々でなければ出逢うことがなかった人たちや、感じることもなかった気持ちがあることを実感して、感謝する気持ちも生まれています。
うわべの感情ではなく、心の底から納得できる一面が、今はあります。

どうしようもない日々に変わりはないけれど、一生をかけて恩返ししたい友人や家族がいてくれること、どんなに諦めようと思っても消えていかない天職といえる仕事への愛情、そして、この10年もがいた経験。苦しみから逃れようと抱いた死への憧れと、命を断ってしまった2人の友人の存在、そしてそれを通して感じた命の重み。

この日々があったことで得たものは、これから先にだって待ち受けている沢山の困難に立ち向かう土台になってくれるはずだし、たいていのことなら揺らがない気がします。

またこうして、近況を書いてみようと思えたのも、寄り添ってくれる人がいるおかげです。
 
 
きっと、僕が感じてきた孤独は、病気が作ったものではなくて、自分自身が心を閉ざしてしまった結果。

理解を得ることは本当に難しく、その過程で受けた痛みや傷で、どんどん気持ちが消極的になって、生気が失われていくのを感じて、今のそのままの自分を表現することが怖くなっていったんだと思います。身を守るための孤独なのかもしれません。
 
 

これからしたいこと。

それはとても限られているし、何かをすれば、した分だけ反動として痛みは大きくなるけれど、できることからやってみたいと思います。
朝起きる。ちゃんとご飯を食べる。太陽をあびて伸びをする。なんでもいいから、身体と心にいいことを。

そして、心を閉ざしていく過程で、逆に傷つけてしまった家族へ、ありがとうを伝えたいと思っています。
一番心配してくれて、支えてくれようとしていたはずなのに、信じることが出来ませんでした。
けれど、彼らがいなかったら、僕はどこにも不条理をぶつける場がなかった。
それは、家族という唯一無二の彼らだったからこそ出来たことだと思うので、感謝してもしきれません。

寄り添おうとしてくれた家族や友人がいてくれたことで、心の膿を少しずつ出せたような気がしています。病気になったけれど、自分が自分であることに変わりはない。
そんなあたりまえのことに立ち還らせてくれました。

「今のお前には、今のお前の魅力がある」 そう力説してくれた人もいます。
闘病で、人生の時計が止まってしまったように感じて、病気と向き合えば向き合うほど、あらがえばあらがっただけ、そがれていった自信。
そんな空っぽな自分にかけてもらえたプレゼントのような言葉。短い一言の中につまった沢山の想いを感じて、勇気が湧きました。
 
 
自分の命を豊かにするのは、結局は自分。
どんな状況になっても、自分の受け取り方や捉え方で、物事の見え方も環境も未来も変えられる。
そう実感できている今があって、それを見守り、支えてくれる人もいます。

治すには、まずは心から。
穏やかに冷静に物事を整理して、できることに目を向ければいい。
その歩みはカタツムリのようにゆっくりかもしれないけれど、前向きになれることがひとつでもあるのは、暗闇をぽっと安心で包む優しい灯火のようなもの。

へこたれ続けても、七転び八起きであればいい。
闘病を好転させるのは難しい。それを学んだ10年です。
 
 

自分が健康ではなくなって、感じることが出来るようになったこと。

それは自分が思っている以上に沢山あるんだと思います。
子どもを持って、初めて街中にいる妊婦さんや子どもたちに目がいくようになるのと同じように、自然と目につくものが変わりました。

わたしのフクシ。の活動に携わることで知れた、顔も知らない人たちの声。
見えない障害バッジを手にしようとする人のなかには、きっとまだ暗闇のなかで一人もがいている人が沢山います。理解を求めて、懸命に生きている人がいます。

バッジがポストに届いて、嬉しくて写真を送ってくださる方もいます。
わたし達の活動がゆっくりなだけでなく、「理解」というのは本当に複雑で難しいことなので、きっとバッジをつけていて辛い思いをすることだってあると思います。
お前元気そうじゃん、なんでそんなのつけてるの?
きっとそんなことは、ざらだと思います。

けれど、このバッジを手にしたときの僕がそうであったように、このバッジを勇気の旗印に、狭い闘病生活から飛び出して、日々の枠を越えられている人だっています。
世の中には自分と同じように苦しんでいる人が沢山いて、それぞれの苦しみと闘っている。
孤独だけど孤独じゃない。そんな漠然とした事実が、ほんの小さな勇気をくれることだってある。
それが、見えない障害バッジの一番の意義だと僕は感じています。
間接的な繋がりだけれど、それを支えに生きられる人がいる。

社会や、ひとりひとりの理解なんて、どんなに待っていたって少しずつしか変わっていかない。
自分の身体が思うようにならないのは確かに不条理だし、こんなに悔しいことはないけれど、どこにもぶつける場がないけれど、いっぱい悩んで、嘆いて、沢山苦しんだ分、きっと何かが変わっているし、強くなれているんだと思います。
 
 
不思議なことに、人は目に見えないと分かっていることでも、目に見えることだけで判断しようとします。

自分自身が、一番の理解者でいること。
あたりまえのことだけど、それが一番大切なこと。
 
 
 
今月も沢山の人がバッジに関心をもって、ここのページや、Facebookページに訪問してくれました。
孤独や不安を抱えている当事者と、何かの力になりたいと共感し、共鳴してくれる人たちとを繋いでくれるバッジの存在の大きさを、あらためて感じています。

人の気持ちが集まるってすごいですね。
 
 
笑顔でいるのは命を削るようなエネルギーが必要だけれど、今は笑っていたいと思います。
今、自分が気づけること、目を向けられること、役に立てること、したいと思うことを、大事にしたいから。
 
 
すこし長くなってしまいましたが、ありのままの今を綴ってみました。
自分で読み返すだけで、なげーなって思います。
それなのに、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
 
 
季節は立冬。
秋も深まり、暦の上では冬のはじまりです。
きのこや焼き芋、色づく葉っぱたち。
落ち葉や冷たくて澄んだ空気に、どこか淋しげな気持ちになりますが、季節のものを身体に摂りこむと、自然の温かさを感じてホッとする不思議な時季ですね。
どうぞご自愛ください。

それではまた。

ごーし

 
 

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高櫻 剛史

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