ごあいさつ 『わたし』のはなし 『フクシ』のはなし 見えない障害バッジ みんなのひろば 編集室

こころの生活。

それぞれの意味

 

2011年から活動に加わり、Facebookページの運営や発送作業をしながら常日頃考えていることがあります。

「見えない障害バッジ」

自分にとっては、外に出てみようと思える勇気の象徴だったけれど、他の人にとってはどう映っているんだろう。どんな存在かな、役に立てていたらいいな。
 

ツイッターやブログ、掲載してくださるメディアなど、見えない障害バッジに対するいろんな考え方や思いがあるのを目にしてきました。

賛同してくださったり応援してくださる方もいれば、もうすこしバッジが目立つようにしたり活動の幅を広げたりもできると思う、そんなアドバイスを届けてくださったりと、それぞれに考え方の違いや想いがあることを感じています。
 

わたしのフクシ。の活動はとても静かで穏やかでひかえめ。
それが私自身の感じている印象です。

当事者が声をあげて形になって、当事者だけでなく思いを共有する人同士が協力して運営しているカタチ。そしてそれを応援したいと言ってくれる人が大勢いるのなら、協賛を申し出てくれている方々の力やお金も助けにしながら、もう少し大きな輪として社会に広げていってもいいんじゃないかとずっと思ってきました。

いろんな人がいる世界、社会だから、ひかえめすぎると届かないんじゃないか…。

バッジの存在が世間に広がらなかったら、バッジを手にしている人の支えにはなれない。以心伝心とはいかない人の繋がりのなかで、さらに目に見えないという厳しい現実を背負っている人が社会と繋がるには、もうすこし積極的に背中を支える力があってもいいんじゃないかな…。そう思う気持ちがあるのも正直なところです。

もちろん「わたしのフクシ。」に関わっている人は、世の中へ広げることの大切さを日々感じていると思います。でも同時に広げていく難しさも感じているんだと思います。
 

わたしのフクシ。の活動の中心にいるKさんはすごく物腰が柔らかくて、全体を俯瞰してみているような、すごく静かで不思議な人です。

「自然に広がってほしいんだよね」と、Kさんのあの静かで優しい口調で言っているのを聞くと、これがわたしのフクシ。の魅力だったり原点や原動力なんだろうなと感じたのを今でも覚えています。

ゼロから始まったこの活動が、沢山の熱意に支えながらも、ひっそりとマイペースに誠実に実を結んでるのを見ていると、身近な人と心を通わせたり手を繋ぎながらゆっくり広がっていく姿も素敵だなと感じるし、大事なことだなと思います。

みんなで一緒に生きていこう!っていう仲間の旗印。
その想いも社会に届けばいいな。
 

見えない障害バッジだけでなく、ヘルプマークなど各自治体の活動も含めると、以前よりも色んな形や動きが広がっていますね。

すべての人が普通に穏やかにすごせる社会。

その想いが、同じ温度で純粋に届くのが一番です。
その思いや願いは、どんな風に社会に届いているでしょうか。

まだまだ十分とは言えない現状から、どのように届けていくのがいいのでしょうか。広げていくのがいいのでしょうか。

権利の主張でもなく、特別に扱ってほしいわけでもない。押し付けるつもりもない。
誰しもが自然と助け合える、そんな日々をすごせるようになるために。
 

つい先日もNHKの「あさイチ」で目に見えない障害があることを特集していましたが、すべての人が穏やかにすごせる社会というのは本当に難しいことだなと感じました。当たり前のことだけれど、必要なことが人によって様々だということは、課題もまた無限大だということなんですよね。

想像しようとどんなに試みても、とうてい及ばない。それが本来の姿なんだと思います。

目に見えないものがある、それを当事者として日々実感していると、それを周りの人に分かってもらいたいと思う気持ちはあっても、それを求めるエネルギーはどんどん小さくしぼんでいきます。伝えることの難しさが連続して、誤解や中傷に傷ついたり、結果ひとりで耐えた方が楽…そんな気持ちになっていくように感じます。

そうやって心を守りながら生きる力を身につけるのも大事なことだとは思うけれど、でもどうやったって一人では生きていけないから、社会のなかでは一定以上の理解は必要になってくるんだと思います。
 

本を読む青年。
元気におしゃべりをして笑っている学生。
車窓から外を眺めてぼんやりしている人や眠そうなサラリーマン。
これからお出かけかな?そんな楽しげな装いの家族。
おなかに赤ちゃんがいるお母さん。
顔色があんまりよくなくて心配な女の子。
席なんか譲ってくれるなよ、立ち姿や表情にそんな気概を感じる元気印のおじいちゃん。
 

目に映るだけの世界にも沢山の人の日常があります。
そして、どの人たちにも見えない障害があるかもしれないことを心のどこかで分かっていなくちゃいけないんだと思います。
 

片方の耳が聞こえないかもしれない
心臓が悪いかもしれない
音が痛いかもしれない
 

優先席、それは、座ることが助けになる人を想像して作られた場所です。

どんな人でも利用できるように、みんなの乗り物だもんね、思い合おうねっていう優しい気持ちが形になったものだと思いますが、優先席を作らなければいけなかった、というすこし寂しい社会の側面が垣間見える気もします。

そして、優先席を作ったことで人の想像力を削ってしまったという一面が少なからずあるのではないでしょうか。座ることだけが必要な助けとは限らないし、席を譲ることへの義務感のような不思議な感覚が生まれてしまいました。

見えない障害バッジもそうだと思いますが、自然に生まれる支え合いが必要なところに、目に見えたり形になったりすることで、逆に見えなくなってしまうものがある気がしています。

気構えてしまったりうがった気持ちや義務感や罪悪感が生まれるのもきっとそう。
人の心の難しさ、複雑さですね。目立たないということも大事なのかもしれません。

大切なのはルールじゃなくて、身近にいる人に目を向けること、心を配ってみること。

どんな人がいるのかな、どんなことができるかな、必要なことはあるかな、そう想像することなんだと思います。そうやってそっと思い合って、気持ちのいいひとときがすごせたら最高。

ついつい世の中の喧噪にまぎれてしまうけれど、人がいて社会があるという当たり前のことに目を向けるきっかけに、優先席や見えない障害バッジがなれたらいいなぁと思っています。
 

見えないものを抱えているということを知らせるバッジが生まれた意味ってなんだろう。
この数年で何度も反芻してきたことです。

ひとりひとりに、意味や存在の重さは違うと思います。
あなたにとってはどうでしょうか。社会にとってどんな存在になっていけばいいのでしょうか。

人と人とを繋ぐ心のバッジ。
そうなれていたらいいな。
それなぁに?そんな会話のきっかけだって嬉しいです。
いろんな立場や考え方を持った人に、見えない障害バッジを通して、いろんなことを想像したり、おしゃべりしたりしてもらえたらいいなぁと思います。

それが一番心強いことだなって思います。
 

東京オリンピックに向けて、街の整備や福祉の充実がすすめられていますが、心の目をもつ意識が根付くような、そんな取り組みが行われていってほしい。

ありふれた日常のなかにまぎれていて誰しもが気づかずに触れている身近な大事なこと。
想像力が豊かな社会、それって豊かだし、かっこいいし、ほっとするし、なんといっても楽ですよね。

日本にやってくる人にも日本の温かさを感じてもらえたらいいなぁと願います。
 

見えない障害バッジやヘルプマークが社会にとって当たり前の存在になっていけばいいな。
でもそんなのいらない社会が一番いい。
多様性が求められる世の中で、価値観の幅をぐっと広げる。人と繋がることで心に余裕が持てたり支え合えたりもする。
なかなかそうはいかないのも世の常だけど、そう願うのは大事。
 

生きるということは想像以上に過酷です。
いろんなことがあります。
みんないろんなことを抱えながら日々をすごしているんだと思います。

小さな存在だけど、このバッジに託されているもの、支え合えているもの、
ひとつひとつのバッジにこめられた思いを大事にできるように、
これからも想像することを大切にしながら、大事に大事に活動していきたいと思っています。
 
 

つい数日前、道端にコスモスが咲いていました。
暑さにうだる毎日だけど、秋が近づいているんだなと感じました。
西日本では大変な思いをされてる方が今も沢山いると思います、どうかすこしでも早く穏やかな日々をすごせるように願ってやみません。 
みなさんもどうかお身体を大切になさってくださいね。

長くなってしまいましたが、読んでくださってありがとうございました。

 

ごーし

 

 

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高櫻 剛史

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