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ノートの端っこ

潤滑油

 
 会うのは、3年ぶりだった。「久しぶりやねー。元気だった?ちょっと痩せたんちゃう。ちゃんと食べてるの。体に気をつけないとあかんでー!」。あいだにあった時間を忘れてしまうくらい、変わらない笑顔と、ハキハキした関西弁で、出迎えてくれた。

 滋賀県庁に勤務する手話通訳者、Bさん。今年6月、佐賀市で開かれた「全国ろうあ者大会」で私が初めて講演することになり、共通の友人でもあるろう者と、新幹線で駆けつけてきてくれた。

 出会ったのは記者1年目、赴任していた滋賀県。きっかけは「滋賀県庁に、聴覚障害者向け案内板を兼ねた信楽焼タヌキが設置される」という広報文だった。Bさんの通訳で、私は制作者の陶芸家(ろう者)を取材した。

 間近に手話を体感したのは初めてだった。手を自在に、素早く動かし、陶芸家と通訳者が会話を交し合う。その迫力に圧倒された。私一人が、その場で、置いてけぼりになっていた。この取材をきっかけに、「手話」に興味を持ち、Bさんが主宰する手話サークルに通うようになった。

 会には常に、ろう者が参加していた。Bさんは「テキスト」をほとんど使わない。ろう者と直接、コミュニケーションしながら、表現を体感させる。「私が知ってほしいのは『単語』ではなく『心』やから」。Bさんは繰り返した。

 以後多くの通訳者に出会ったが、彼女ほどろう者と近く、親しい通訳者に出会ったことはない。ろう者もそんなBさんを信頼した。常にろう者からのメールが相次ぎ、県庁の席の周りを囲み、手話の「井戸端会議」があった。

 「友人として言わないといけないこともある」と、時に厳しい意見も伝えた。「聞こえない」ことに甘え、通訳者を頼ってばかりいるろう者に「もっと自ら意思表明せんとあかん」。そう励ました。

 態度は常に、対等。「障害」ではなく、その人その人、一人一人と向き合っていた。

 「支援」という言葉を嫌った。「お互いを理解し、会話を楽しむための『潤滑油』でありたいねん」。そして続ける。「いつか、私たち通訳者がいなくても会話ができる社会になってほしいね」。一度だけ、彼女自身のことを取材した時、聴いた言葉だった。
 
 
 私は彼女のようになることはできないし、その全てが「正しい」とは思わない。でも、この姿勢は、私が福祉関係の取材をする上で、大きな指針になった。前回書いた筋ジストロフィーの後輩もそうだったが、彼女に出会わなければ、今まで障害や難病の取材を続けることができたか、分からない。

 私は講演で、Bさんと出会ったこと、学んだことを話した。一番前の席に座るBさんの視線は照れくさかったけれど、「これが授業参観で母親への手紙を読み上げている気持ちなのかな」と思いながら、語り切った。

 終了後、Bさんは泣いていた。「ありがとうね、蒔田君」。……お礼を言いたいのはこちらです、と、言葉には出さず、笑顔で返事をした。
 
 
 
※ 記事中にある「ろう者」は、聴覚障害があり、手話を第1言語(母語)にしている人たちのことを意味して使用しました。
 
 

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蒔田備憲

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