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ノートの端っこ

願い

 
 2012年が始まった夜、私は初めて、「年越し初詣」をするために佐賀市内の神社にいた。信心深いわけでは決してない。むしろ、大人数がお祭り騒ぎで押し寄せる場所は苦手だ。だけどこの日は挑戦してみたくなった。ある家族の姿を思い浮かべ、「慣れないことをするのも悪くない」と思いながら、人波をかきわけ境内を歩いた。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 その家族に初めて会ったのは昨年初夏。難病患者の集う会合で、父親Jさんが長男K君の病気について初めて人前でスピーチする場に立ち合った。K君は極めて発症例が少ない染色体異常症。気の抜けない在宅介護での不安や、希少性から情報が集まらず研究や実態調査が進まない現状を、参加者に訴えた。

 Jさんが声を上げたのはもう一つ、大きな理由があった。「珍しい病気で、情報がほとんど集まらないからこそ、自分たちが表に出ることで、次に生まれてくる子供、家族の力になりたい」。自分の生活で手一杯なはずなのに、そう言葉に出来る姿勢に「もっと話を聞きたい。伝えたい」と感じ、取材を始めた。

 K君は出生前診断で心臓に異常が見つかった。生後も、呼吸器、消化器などの症状に苦しんだ。「覚悟するように」。医師からそう言われた時期もあった。

 その当時、Jさんは中部地方で働いていた。働き手として残るべきか。それとも妻Lさんのそばに行く方がいいのか。Jさんは後者を選んだ。「稼いで家族を支えるのが男だろ」。同僚からそんな声も飛んだ。葛藤もあった。それでも、「一番大変な時、一緒にいてあげなかったら、生まれてくる子供に、顔向けできなくなる」と考えた。

 病院退院後の在宅生活も、気の抜けない時間が続いた。K君は呼吸の力が弱く、就寝時は酸素吸入器の装着が必要になる。機械が外れていないか不安になり、夜中も3時間ごとに交代で様子を見た。口からの食事が難しく鼻から胃に管を通した。K君は管も、その交換も、ひどく嫌がった。医師と相談の上、水分や栄養分を直接胃に入れる器具「胃ろう」をつけた。

 初めて自宅を訪ねたのは、そんなころだった。

 胃ろう装着後、歩くことができるようになったK君は、ミニカーを手に部屋中を駆け回っていた。時折、私の方に顔を向けると、顔全体をくしゃっとつぶしたような笑顔を見せてくれた。

 眠りに就いたJ君に吸入器と血中酸素濃度を測るセンサーを付け終わると、2人は思いを率直に語ってくれた。遺伝性の疾患だったことからLさんが「自分のせいだ」と責めたこと。在宅介護の状況を理解してくれるJさんの働き口がなかなか見つからないこと。何より、医師にも予想がつかない状態が続き、「経過観察だけ」という先の見えない不安を抱えていること。気付けば、6時間近くが経っていた。

「他人」の私が聞くだけでも、厳しい状況だった。だけど2人は笑顔で、言い切った。

「病気がなければ、と思ったことはありません。つらいこともあるけど、それを含めてKです」(Jさん)

「かわいそう、どん底、と思われても、私たちは不幸ではない。Kは、いろんな困難を乗り越えて生まれてきてくれたのだから」(Lさん)

 それは「つよがり」だったのかもしれない。そうだとしても、こうして言葉にできる2人を、尊敬した。

 しかし、私はなかなか原稿を書けなかった。書かなければならないこと、伝えたいこと、たくさんあったはずなのに。当時の手帳を読み返すと、毎週毎週、「Jさんの記事書く!」と付箋を張っていた。それでも進まなかった。

 明確な理由は分からないけれど、記事を書くことでK君の「将来」に関与しうるという重圧、あるいは2人の年代が自分に近いことで普段は意識しないようにしている「個人の感情」を自覚してしまったから、かもしれない。今でもはっきりとした理由を持っているわけではない。

 再取材を重ね、記事が完成したのは、約2カ月後だった。

 掲載した早朝、新聞を読んだJさんから電話があった。「Kのこと、私たちのこと、きちんと書いてくれてありがとう」。Lさんは記事を読み、涙を流してくれた、ということも報告してくれた。

 取材相手に喜ばれるだけがこの仕事の役割ではない、ということは、重々わかっている。でもそれでも、この時の電話は、私にとってかけがえのないものだった。この仕事をしていて「本当に良かった」と心から思えた。

 その後も、定期的に3人を訪ねた。記事にするためではなく、3人の「今」を、体感するために。Jさんは新しい仕事に就き、朝から夜まで働いていた。LさんK君を抱えながら、カレーなど美味しい食事を振る舞ってくれた。そのK君は訪ねるたびに成長した表情を見せてくれた。「ぱぱ」「まま」と言葉もよく出るようになっていた。生活は、安定していると実感できた。

 「自分たちの想像を超えて、Kは成長してくれている。1年前、今の様に過ごせるなんて思わなかった」。Jさんは、かみしめるようにつぶやいた。

 新しい悩みもあった。胃ろうを付け医療的ケアが必要なK君を受け入れてくれる幼稚園があるのかということだ。現在は、理解ある児童デイサービスに預けている。「同世代の子供たちと一緒の時間を過ごさせたい」。2人はそう願っている。

 多くの苦しみや悲しみを味わいながら、それを受け入れ、前へ向かおうとするこの家族に、私は憧れを抱いていた。そして、本当に小さな小さなことしかできないけれど、「記者」として、あるいは「知人」として、何ができるのか。何を伝えればいいのか。どう関わればいいのか。佐賀にいても、いなくても、考え、動いていきたいと、強く思うようになった。

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 私が神社でしたことは、「安産祈願」のお守りを買い、柏手を打つこと。この春、3人に新しい家族が増える。予定通りなら、もうまもなくだ。その知らせを、緊張と喜びを抱えながら、待ち望んでいる。
 
 

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蒔田備憲

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